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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1740151996/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にあり得ない。
VIPQ2_EXTDAT: checked:checked:1000:512:donguri=1: EXT was configured ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
それまで強烈に機能していた共同体規制が臨界を超えて一挙に崩壊し、権力集中と個人的所有権の爆発的拡大が起こったことが、墳丘の急激な巨大化と厚葬の開始から見て取れよう。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※) 固り戦国越の滅亡後に南遷した越人の国が東甌や東越などであること、南遷後の晋が東晋であること、陳寿三国志に於ても州胡が「馬韓之西海中大島上」(魏書東夷伝韓条)と済州島の方位を90度誤っていることなど「東と南と相兼ね 」るは常例と言われて久しい。
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
因みに釜山〜佐須奈34海里(=63km)、佐須奈〜厳原47海里(=87km、厳原〜芦辺37海里(=68.5km(海保水路部距離表)であり、芦辺〜唐津は25海里(=46.3km)と短い。通算264.8kmである。印通寺〜呼子は僅か16.3海里(=30.1km)と更に短い。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇陀と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄矛の後継品であったと思われる矛の後継品であったと思われるに劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。

首長権力の有りようが窺われる。
◆FAQ 15−2
纒向大溝建築材実測図
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
◆FAQ 15−3
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であったが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が続き、南京市幕府山呉丁奉家族墓の鼓吹俑で271年まで遡った。中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降るが、咸陽成任村東漢墓の金属器物は現状最古鐙現物である可能性が高い。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代)
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 25-2
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
その他、ホケノ山(纒向3類中葉)出土の刀装具に伴う繊維片も精錬絹糸の可能性がある。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。1BIII型式期は正始九年を含んでおり、楽浪地区が衰退して漢人の活動域が黄海道地区へと後退する時期である。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
加美1号周溝墓出土の陶質土器が金官伽耶I期に先行するものである事から、楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する。(白井2001、久住2012)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である。(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
(付図)

「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当でないという意見に対して合理的な疑いを差し挟む余地がある。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
——————————MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。
(付図)
松浦潟
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀)
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。
碑別字:
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 77−2
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のそれとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
明らかに「道里」が日数表記されている実例である。
ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)
◆FAQ 78-2
(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有~仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書郡国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
4世紀後半だ!
A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!
A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有コ。崩而葬焉。
至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。
「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40) ◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!
A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
と調査機関は公式発表している。
事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。
下図のとおり、上部に堆積した包含層IIIを除去すると、造成された整地層上の建物B及びC柱穴を破壊している溝SD-2001(庄内3)、柱穴建物D柱穴を破壊している溝SX-1001(布留2)、溝SM-1001(布留1)期、溝SD-1009(布留0)が明らかとなる。
大型建物群配置図
同空撮
建物B空撮
Dより西を望む
◆FAQ 102
Q:倭人伝に一大率が諸国を検察したとあるが、漢末以来刺史は行政官化しており、監察官だったのは昔のことである。一大率が刺史の如きであると云うのは漢代の古い情報の混在だ!
A:刺史は魏代でも依然として行政監察の職責を担うし、行政官もまた検察を行なう。卑弥呼朝貢後に聴取された情報として矛盾が無い。
正始年間の夏侯玄『除重官議』に、秦漢以来郡守と刺史の二重行政があり(重以郡守,累以刺史)混乱を招くので郡守を省いて刺史に専任させれば、行政の合理化と監察の存続が図れる(宜省郡守但任刺史、 刺史職存則監察不廃 )とある。これが当時政権中枢にいた人物の認識である。
また建安九年、曹公は河北に令して「郡国守・相は富者の徴税脱れ貧者への二重課税が無きよう明り検察せよ」(裴註魏書所載公令:郡国守相明検察之、無令彊民有所隱蔵、而弱民兼賦也 )とした。
註:当時は趙国王が宗室の人であったため、郡太守に相当する最上位行政官は趙国相。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
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なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
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>>83
まともな反論は出来ないけどな。 わははははは @阿波 >>84 wikiに21傍国は「遠くに在って国名だけしか分からない」と書いてありますけど
>>85
そのwikiがなんだと言うのか? @阿波 >>86
>投馬国は邪馬台国より北にあるんですけど
なんで? @阿波 >>88 女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳かにす可からず。次に斯馬国有り、次に己百支国有り、(中略)次に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。
其の南に狗邪国あり、男子を王と為す。
>>89
>投馬国は邪馬台国より北にあるんですけど
だから「投馬国」がなんで? @阿波 >>89
>投馬国は邪馬台国より北にあるんですけど
だから21国以外の「投馬国」がなんで? @阿波 .
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
>>91 投馬国から南水行十日・陸行一月で邪馬台国に着くからです
>>93
>戸数・道里が載ってるからです
女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、記載していない21国なんだが?
だから記載していない21国以外の「投馬国」がなんで? @阿波 >>95 投馬国から南水行十日・陸行一月で邪馬台国に着くからです
>>96 だから投馬国が邪馬台国の南にある阿保説はデタラメなのです
>>99
女王国より以北は、戸数・道里が載っていない21国なんだが?
「投馬国」は、戸数・道里が載っているので、「女王国より以北」ではないのだが? 頭大丈夫か? わははははは @阿波 もっと骨のある奴は居ないのかよw 退屈だ。 @阿波
>>103
はい、白旗ね。 もっと骨のある奴は居ないのかよw 退屈だ。 @阿波 阿波の古代史ってさ、ぶっちゃけ「何もねえ空白地帯の恥ずかしい記録」でしかないだろ。縄文時代、他の地域が土器の技術進化させて文化作ってる中、阿波の連中は「石ころ拾ってキャッキャしてるだけの原始人集団」。考古学的に見ても、出土品がショボすぎて「これ、ただのゴミじゃね?」ってレベル。貝塚とか残ってるけど、「貝食って捨てただけの証拠」で、知恵も進歩もゼロ。全国的に見りゃ、「阿波の縄文人=脳みそ空っぽの笑いもの」だよ。
弥生時代に入っても、他の地域が稲作で集落作って社会形成してるのに、阿波は「泥まみれで米粒一個ずつ数えてただけのバカの群れ」。銅鐸とか青銅器が少し出てるけど、「他所からパクったか拾っただけ」で、自分らで作った形跡ねえだろ。技術も文化もゼロで、「四国の置いてけぼり地域」ってのがバレバレ。ヤマト王権が四国支配した時も、阿波は「抵抗すらできねえ雑魚」として強制的に組み込まれただけ。『日本書紀』とかに名前出てこねえのも当然、存在感ゼロで「記録する価値すらねえゴミ地域」扱いだよ。
古墳時代だって笑えるぜ。他の地域が立派な前方後円墳作って権力誇示してる中、阿波の古墳は「ショボい小山みたいなゴミ」ばっかり。出土品も貧相で、「副葬品すらろくに用意できねえ貧乏集落」の証明だろ。大和政権に媚び売ってなんとか生き延びたけど、「ただの使いっ走り」でしかない。阿波国って名前が一応出てくるけど、「名前だけ立派な三流属国」で、誰からも相手にされてねえのが歴史的事実。豪族とかいたらしいけど、「田舎のチンピラ程度の力しかねえ奴ら」がイキってただけだよ。
阿波の古代史って、「何も成し遂げられず、ただダラダラ生きてただけのクソ記録」のオンパレードだ。県民が「俺らの古代史は…」とか言い出したら、「お前らの先祖、ただの笑いものの土人だろ」ってゲラゲラ笑ってやればいい。進歩ゼロ、価値ゼロ、存在意義ゼロのゴミ史、それが阿波の古代史だよ。
>>100 戸数・道里が略載されているのは8か国
遠くて情報が少ないと国名だけが列記されているのは21か国
>>100 他の人に指摘されても自分の解釈の間違いに気づくことができないとは・・
荒らしにレスしたあなたも荒らしです
痴呆は放置しましょう
>>107
>戸数・道里が略載されているのは8か国
そうだ。
そして、戸数・道里が略載できるけれども、略載されていないのが21国だ。
遠くて情報が少ない「其餘旁國遠絶」は国名さえも分からない。 分かったか? アンポンタンよ。 @阿波 >>110 そんな国は倭国にはない
倭国に含まれるのは全部で29か国
倭国内の国名リストで帯方郡から近い順番で邪馬台国までの8か国は魏の役人が少なくとも一度は現地を訪れたことがあるはずだ
それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない そのことを表現していると思う
>>111
>倭国に含まれるのは全部で29か国
そんな国は倭(阿波)にはない! というか、「魏志倭人伝」に書いていない。 @阿波 >>110 21国は「戸数・道里が略載できる」なんて何処にも書いてないっす
>>113
>それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない
そうかも知れない。 「邪馬臺国(粟国)」の「女王之所都」に到着したから、21国は訪問していないだろうな。 @阿波 >>115
書いている。
「自女王國以北其戸數道里可得略載」 @阿波 >>117 土佐投馬国からの陸行で通行してるのにな
>>116
>戸数・道里が分からないから書いて無い
戸数・道里は分かるが、21国もあるので、国名しか記載しなかったのだろう。 @阿波 >>114 魏志倭人伝には29か国がリストされている
これに狗奴国を足して魏と国交を結んでいた国は合計30か国
>>119
>土佐投馬国からの陸行で通行してるのにな
「投馬国」は、倭(阿波)じゃないから と、何度言えばww
「戸數道里」を記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。 @阿波 >>121
「魏志倭人伝」にそんな勝手算数など不要! @阿波 >>123
>それは邪馬台国までの8か国のこと
違う! 「戸數道里」を記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。 @阿波 >>123
>それは邪馬台国までの8か国のこと
違う! 「戸數道里」を記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。
分かったか? アンポンタンよ。 @阿波 >>113
>それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない
そうかも知れない。 「邪馬臺国(粟国)」の「女王之所都」に到着したから、21国は訪問していないだろうな。 @阿波 >>129 女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来る・・・
だから、投馬国はその中に含まれる
>>113
>それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない
いや、「其戸數道里可得略載」とあるから、訪問しているな。 21ヵ国もあるので国名だけ記載したようだ。 @阿波 魏の人々にとって倭国は帯方郡の南という前提がある
帯方郡から遠方になるほど、それはより南という感覚だったのだろう
>>132
>女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来る・・・
「投馬国」などの8ヵ国は、おおよそではなく、詳しく記載している。
「戸數道里」を詳しく記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。 @阿波 投馬国から水行10日
陸行一月、女王の所都は邪馬台国と名命。
次有、列記21国、此女王の境界尽きる所。
21国は梯儁が参問で漢字にした女王所属国。
女王国以北戸数道里可得詳細
余傍国遠絶不得詳
は、梯儁の報告書ではなく陳寿の補足
デタラメな現代語訳でミスリードしたのは
真実を晒さない為の倭人伝論争当事者だろ?
>>113
>それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない
いや、「其戸數道里可得略載」とあるから、訪問しているな。 21ヵ国もあるので国名だけ記載したようだ。 @阿波 >>133 魏の役人が行ったことがある場所なら必ず記録しただろう
記録することは役人の大事な仕事
「其戸數道里可得略載」は何度も言うが邪馬台国までの8か国のこと
>>138
>魏の役人が行ったことがある場所なら必ず記録しただろう
だから、、「其戸數道里可得略載」とある。 @阿波 >>138
>「其戸數道里可得略載」は何度も言うが邪馬台国までの8か国のこと
何度言っても、没。
「戸數道里」を詳しく記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。 @阿波 >>139
書いていない21か国より詳しい。 @阿波 >>140 これは読解の問題というより単純な思い込みによる誤解
誰か君と同じように読む人を見つけたら、そのときに報告しなさい
反復して書き込むことは他の人の迷惑になるので控えなさい
>>143
アホのお前が引っ込んでろ! わははははは @阿波 東夷伝で各所属国の戸数は
大は1.2万 小は1.2万。
馬韓50国。弁辰韓24国。邪馬台国21国である。
馬韓10万、弁辰韓5万、邪馬台国七万
は、列記の詳細国とは、国の概念が違う。
阿波の南側から来てて「女王の北は戸数道理が分かる」なんて書くわけ無いだろ知障
>>113
>それ以外の21か国は魏の役人が行った経験がない
いや、「其戸數道里可得略載」とあるから、訪問しているな。 21ヵ国もあるので国名だけ記載したようだ。 @阿波 このスレとおまえらにピッタリの曲だよ
.
女王國以北=非女王国は、對海国から伊都国まで
奴国から先が女王国
其餘旁國は、女王国内の奴国から邪馬台国まで以外の国々
女王国の最初の国である奴国までの国々は行程上通るので里数、戸数はわかるが
邪馬台国までの行程上にない其(=女王国)の他の旁(=両側)の国々は
女王國以北の国々と比べて遠いのでわからない
ということ
てレベル。こんな腐れクソみたいな妄想を口にする奴は、歴史どころか自分の名前すらまともに書けねえ脳みそ腐敗したカスだろ。「日本書紀」や「古事記」を根拠にするとかほざいてるけど、あんな記述をこねくり回して「阿波が中心だ!」とか喚くのは、ただの知能ゼロ以下の白痴。読解力以前に、人間としての知性が死んでんだよ。こんなゴミみたいな解釈垂れ流すなら、黙って便所掃除でもしてろって。見てるこっちが吐き気するわ。
証拠?ねえよ、そんなもん。阿波に王都の片鱗すらねえんだから。奈良や京都なら都の遺構がド派手に揃ってて、当時の権力のデカさが目に見えて分かる。阿波は?出てくるのはゴミ溜めに落ちてるような土器の欠片と、誰の骨かも分からんゴロタ石の古墳だけ。それで「王都だ!」とか抜かすのは、ただの精神崩壊したキチガイだろ。もし阿波が王都だったなら、古代人は脳みそがウンコでできてたって証明だよ。こんな汚ねえ証拠でイキがる奴、頭に寄生虫でも住んでんのか?マジで虫唾が走るわ。
文献だって、阿波が主役なんて一文字もねえ。大和がヤマト王権の中枢だってのは、古墳のデカさ、仏教文化の足跡、交易の証拠で犬でも分かる常識だ。阿波が王都なら、なんでそんな「偉大な都」が歴史から消え去ってんだよ。「隠された!」とか叫ぶ頭おかしい奴は、頭にアルミホイル巻いて宇宙人と交信でもしてろって。現実見えねえなら病院行けよ、このゴミクズども。歴史はお前らの下らないオナニーの道具じゃねえんだよ。
地理的にもう救いようがねえ。四国のゴミみたいな僻地で、アクセスがクソ以下、戦略的価値はマイナス100。こんな腐りきった場所に王都置くとか、古代の王が全員脳みそ溶けてた証拠だろ。大和みたいに内陸の要衝握って支配する知恵すらねえなら、王様とか名乗る資格ねえよ、恥晒しが。阿波に政治の中枢あったら、船でフラフラ渡って、嵐来たら「はい、オワコン!」ってか?そんな間抜けな政権、1秒で滅びるわ。歴史に残るどころか、ただの汚物以下の笑いものだよ。
この説信じてる奴、もう生きてる意味ねえよ。地元愛とかロマンとかほざいてるけど、そんな腐臭漂う妄想で歴史が動くと思ってんのか?阿波が王都なんて、頭がイカれすぎてて精神科送りレベルだよ。
>>151
>女王國以北=非女王国
間違い!
女王國以北=「卑弥呼」を共立した21ヵ国の連邦共和国「邪馬臺国(粟国)」 @阿波 >>151 この場合の女王国以北は帯方郡から邪馬台国までの8か国のこと
邪馬台国阿波説の捏造をダラダラ語るスレ011
http://2chb.net/r/history/1732617769/ 「邪馬臺国(ヤマトコク)」は阿波だった!? IIIβ
http://2chb.net/r/history/1705581057/ 華奴蘇奴國
長国造(阿波国那賀郡)
佐那県(徳島県名東郡佐那河内村)
>>156 誤解を生む書き方でした
>對海(對馬)国に上陸してから邪馬台国までの8か国
>>158
>對海(對馬)国に上陸してから邪馬台国までの8か国
その8ヵ国は、「戸數道里」を詳しく記載されている。
よって、「戸數道里」を詳しく記載した「投馬国」などは、「女王國以北」から外れる。 @阿波 外れる理由ねえし
論理的に反論できない阿波はテイノー
>>159 投馬国も当然8か国に含まれている
君は議論を混乱させる堂々巡りしかできないから少し遠慮したほうがいい
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
魏志倭人伝は、倭国の北岸にある狗邪韓国からひたすら南へ南へと進む
狗邪韓国
↓
対馬国
↓
一大(壱岐)国
↓
末蘆国・伊都国・奴国・不弥国(これらは比較的近い距離でほぼ東西に並ぶ)
↓
投馬国
↓
邪馬台国
上の女王国より以北云々の文章は、(狭義の)女王国すなわち邪馬台国も含めて戸数や道理を略載できると解釈できる
邪馬台国と投馬国は里数表記は出来ていないが、距離をおそらく倭人からの伝聞で日数表記出来ているので、これを道里の略載と陳寿は捉えているだろう(ただし水行一日や陸行一日が具体的に何里かは陳寿にもわかっていないだろう、わかっていればその里数を書くだろうから)
この南北に連なる諸国以外の傍国、すなわち東西に少し外れる国々は、帯方郡使が直接行ったり倭人から詳細を聞いていないので、詳らかではないと言っているのだろう
ちなみに傍国21国の「遠絶」を邪馬台国(ないし上記の南北のルートに記載された戸数・道里の略載可能な各国)から遠絶と解釈する人がいるが、傍国21国は女王の権力の及ぶ範囲内すなわち倭国の構成国なので、倭人から見て遠くて情報がないはずがない
そうではなく、洛陽にいる陳寿から見て非常に遠いから、手元の資料に詳細情報の記載のない傍国21国のことはよくわからない、と言っていると解釈すべきだろう
例えば中国から来た知人に新宿から恵比寿までの山手線各駅周辺を案内したとしよう
新宿、代々木、原宿、渋谷、恵比寿は駅周辺を色々教えてその知人はメモを取った
彼が帰国して書いた旅行記にはその5駅の周辺のことはいろいろ書いてある
しかし彼は案内してもらっていない千駄ヶ谷や表参道や中目黒のことは地名だけ聞いてメモったものの、それ以上のことを聞かれても中国在住の彼にとっては遠絶にして詳らかではないので説明できない訳だ
千駄ヶ谷は代々木や原宿から近いし、表参道は原宿や渋谷から近いし、中目黒は恵比寿から近いにも関わらず、だ
私は遠絶にして詳らかでない傍国21国をこのようなイメージで捉えている
>>160
>外れる理由ねえし
理由有るし。
その8ヵ国は、「戸數道里」を詳しく記載済み。 なので、「其戸數道里可得略載」の「可」を書いた意味がない。
21ヵ国もあるので国名だけ記載したようだ。 @阿波 >>161
>投馬国も当然8か国に含まれている
だからそう言っている。 アホですか? @阿波 魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記のクニ、小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」はクニとしての邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道里をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、クニである伊都国が属しているのが女王国ということなので、この女王国は上位レイヤーの「倭国」ということになるだろう
2については、女王国より北の倭国内のクニについては戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は単体のクニである「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的に一万二千里のこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいるとされているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは外形的には判別できない
(続く)
(続き)
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためであろうか(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)
>>163
>私は遠絶にして詳らかでない傍国21国
「其戸數道里可得略載」21ヵ国と、「其餘旁國遠絶」の国とは、別 だと、何度言えばww @阿波 粟国さんは、毎日暇そうですね、エブリデーホリデーなのかな???
>>170
付け忘れだ。 最近、付けるの復活させてみた。 @阿波 >>169-170
お前は相変わらず、自説を言えない能無しじゃのうww @阿波 至女王の所都 邪馬台国
の張政の伊都までと梯儁の女王までの行程
の後、補足で
女王国以北戸数道里可得略載
この文の主語は陳寿で、現代語にするなら、
郡から魏使が南下して来た道里に有る
女王国以北の国はここまでの文中で
戸数や道里等を記載できた。
そして
余傍国遠絶不得詳
その他の国は遠く隔たったりで詳細は無い。
次有(列記21国、詳細国名)
此女王境界尽所
此等が女王を共立する国の全てです。
参問した倭地=女王国21国
其の南有り狗奴国
陳寿は東夷伝序文で魏時二回の遣使で
倭の国々の名称の詳細を記録出来た。
と、言っている。 それが、ココ。
南水行二十日(半島)投馬国
から 自郡至女王萬二千余里 までが、
金印届た240年梯儁の女王国についての報告
帯方郡、(馬韓)、投馬国、邪馬台国は
隣接する国の地理説明なので里程は書け無い。
>>173
>の後、補足で
これからは、「邪馬臺国(粟国)」の構成国の説明と、構成国以外の「其餘旁國遠絶」の国の説明となる。 @阿波 >>173
>の後、補足で
これからは、「邪馬臺国(粟国)」の構成国21ヵ国の説明と、構成国以外の「其餘旁國遠絶」の国の説明となる。 @阿波 狗邪韓国は当時の伽耶地域の盟主的地位にあった金官国であり、これは現在の韓国の金海市にあたる
魏志倭人伝の行程記事では、対馬に渡る前に朝鮮半島南岸のかなり東寄りにある狗邪韓国まで行ったと書いてあるが、なぜわざわざここまでいったのかを考える
まず出発点は帯方郡
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
(郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行する。韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里なり。)
帯方郡から韓国(馬韓)の領域に行くまでは確かに海岸を水行している
だが、馬韓の領域に入ってから狗邪韓国までも全て海を通ったとは限らない
むしろ韓国西岸を一気に南下し、そのあと韓国南岸を東進したとすると、
「乍南乍東」
すなわち南へ行ったり東へ行ったりを繰り返すような表現に合わないし、何よりも対馬に行くのにわざわざ狗邪韓国まで行く意味が全くない
また韓国の西岸・南岸の沿岸は非常に航行がしにくいとも言われる
私は帯方郡使は馬韓領域に入ったら漢江系の川に入り、現在のソウル市あたりを経由して南に行ったり東に行ったりしながら南東へ進み、途中陸上移動して洛東江系の河川に入ってさらに南下したものと考える
そうすると、まさに金海市すなわち狗邪韓国あたりで対馬海峡側の海に出る
こちらのルートの方が魏志倭人伝の記述を合理的に説明できるし、難所の朝鮮半島沿岸を航行しなくて良い現実的なルートでもあると考える
魏志倭人伝の行程記事を読む
帯方郡から倭に至るには七千里水行して倭の北側の沿岸すなわち朝鮮半島南岸にある狗邪韓国に到着する
狗邪韓国は今の韓国の金海市あたりにあった金官国とされる
ここから南に
→千里で対馬国
→千里で一大国(壱岐国)
→千里で末蘆国(肥前国松浦郡)
と進み、さらに
→東南に陸行五百里で伊都国(筑前国怡土郡)
→東南に百里で奴国(筑前国儺県=なのあがた)
→東に百里で不弥国(筑前国糟屋郡宇美?筑前国穂波郡?筑前国儺県周辺?)
と進んだ
さらに、
→伊都国ないし不弥国から南に水行二十日で投馬国
→南に邪馬台国に至った(伊都国ないし不弥国ないし投馬国から水行十日陸行一月)
邪馬台国の南に狗奴国があり、女王に属さなかった
すなわち邪馬台国が女王の統治する倭国の南端だ
帯方郡から女王国すなわち邪馬台国に至るには一万二千里掛かった
(「女王国」の語は魏志倭人伝に5か所記載され単体の「邪馬台国」と解釈できるところと連合王国としての「倭国」と解釈できるところがあるが、既に帯方郡から七千里で倭国の北端狗邪韓国に至っているのでここは「倭国」とは解釈できず「邪馬台国」一択)
さらに倭の地を巡り歩くこと五千里とある
これは、倭国に来て北端の狗邪韓国から邪馬台国まで五千里ということだろう
帯方郡から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里という記述とも綺麗に整合する
(一万二千里-七千里=五千里)
(続く)
(続き)
邪馬台国は伊都国や不弥国などの南にあり、肥後にあったと思われる狗奴国(クマ=隈・熊・球磨の地名、官の狗古智卑狗は菊池の旧名久々知の長で久々知彦)の北にあったので、筑後と推定される
帯方郡から伊都国まで一万五百里なので伊都国から邪馬台国は残り千五百里、魏志韓伝と倭人伝の一里は概ね75m(凡そ300km四方の三韓地域を方四千里と書くなど)なので、伊都国から南におおよそ100kmで邪馬台国に着くということになる
この方角と距離感も筑後で符合する
博多湾側から筑後邪馬台国までは御笠川→宝満川→筑後川で水行してから少し陸行したと考えるのが合理的だ
地名から考えれば、邪馬台国は筑後山門郡(プラス肥後菊池郡山門郷)と比定できる
邪馬台国を目指して筑後川を水行してくる途中には筑後上妻郡・下妻郡・三潴郡があり、このあたりが妻国=投馬国と考えられる
邪馬台国と狗奴国の国境に近いであろう菊池川流域では鉄鏃が大量に出土しており、両国の間で激しい戦いがあったことを窺わせる
なお、倭人は里数を知らず日数で距離を測る(隋書倭国伝より)ことから、投馬国の水行二十日、邪馬台国の水行十日陸行一月は倭人からの伝聞と考えられる
倭人が安全保障上の理由で距離や戸数(五万戸、七万戸)を誇張したことは大いに考えられるので、水行十日陸行一月や戸数七万戸を額面通りに受け止めて大真面目に議論することには意味がなかろう
>>177
>狗邪韓国は当時の伽耶地域の盟主的地位にあった金官国であり、これは現在の韓国の金海市にあたる
ただし、出航地は「巨済島」辺りからね。 @阿波 >>179 要するに倭人伝がウソとすれば邪馬台国は九州かもって意味ね
水行十日陸行一月や戸数七万戸は額面通りで良いんだけど問題は里数行程だな
短里なぞ存在しない
古代の交通路
古代において、釜山からソウルに行く方法は、海路、陸路及び内陸水路(河川利用)の3通りが考えられる。
海路は大量輸送には適しているが、風波による海難事故や海賊等の危険が多いことは歴史が示すところである。
また、半島の南・西2辺を回ることとなるので距離も2、3割長い。陸路は、沿線の勢力者(集落、小国等)の合意に基づく整備と管理が必要なので、時代を遡るほど難しいように思われる。
その点、内陸水路において小船の使用を前提とすれば、流路と上陸地があれば事足りるので、古代においては最適な移動手段であったと思われる。
つまり、釜山からソウル方面に向かうには、洛東江を遡上して上流の船着場まで行き、そこから陸路に転じて分水嶺の峠を越え、漢江の船着場から船で下る、という経路がもっとも合理的であったと考えられる。
「古代の韓半島のみちを探る:釜山〜ソウルまでの交通路 吉田薫」
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
阿波説に傾倒する者は、理性的判断の枠組みを逸脱し、歴史的実証性や地理的整合性を顧みることなく、独自の解釈に固執する傾向を有する者に限られる、と言えなくもない。この説の支持者は、古代文献の記述を客観的に検証するよりも、主観的な信念や地域的誇りに基づく幻想的構築物を優先し、結果として通説との間に生じる矛盾を無視する、あるいは恣意的に再解釈する姿勢を露呈する。このような知的態度は、一般に認められた史学的規範から乖離しており、冷静な分析よりも情緒的執着に支配された精神状態を反映していると評される可能性を否定し難い。したがって、阿波説への信仰は、通常の認知枠組みを超えた、ある種の非規範的思考様式に依存する者に特有の現象であると推察される。
陳寿は役人の几帳面さで地域を表す語を厳密に使い分けている
倭人が住んでいる地域は3つに区分している
最初に29カ国からなる倭国
次に倭地
これは狗奴国から南西諸島にかけての地域で当時は倭人のテリトリーと中国では考えられていた
「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、すみずみまで巡って五千余里ほどである」と記載されている
倭国29国と倭地の狗奴国の合計30カ国で「使訳通ずる所は三十国」となる
倭種
魏と国交がないが倭人の国が複数あると記述している
「女王国の東、海を渡って千余里で、また国が有り、皆倭種である。」
これは四国のこと
大事なことはこれ以外に倭人は住んでいなかったと魏は認識している点
「ここは女王の境界の尽きる所である。」と記載されているのはおそらく東北南部あたりのことで、そこから離れては倭人は住んでいない蝦夷の地域
短里と言う単位は知らないけれど
韓伝、倭人伝行程では、
韓方可 4千里
郡至狗邪 7千里
渡海 千里 3回
上陸~伊都 5百里
里程行程はこれだけ。
存在しない短里基準では計って無いでしょ?
韓方可四千里の図面が有り
その基準で張政の帰国後の報告で記載した。
それだけの話。
伊都から不彌国 百里 奴国 百里は
247年伊都に常駐した張政の周辺国の紹介。
一大率が城なら見えたかもしれない。
東夷伝序文の外域の話で周令九服の制の話があるが、
周令の世界概念の中華では一服は5百里である。
この図面を使ったのだろう。
三国志の里程がおかしい事は
韓以遠と西域に関する域外の場合は有る。
地理誌の西域ではかなり細密な端数里程が別の一里。車軌らしい?
一月行単位も東南アジア方面の説明に有る。
倭人伝は千里が基準。
漢以前の古代文献や図面を参照したと思う。
>>188 残念なことに後世の中国の歴史書ではこれらの定義を読み取ることができず混乱を引き起こしている場合がある
>>184
>短里なぞ存在しない
1里=75m程度だ。 @阿波 >>162 そうそう遠絶は基本的には洛陽から遠いということなのよな
なので自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳を訳すなら
邪馬臺国よりも北はその戸数道里を簡易に記すことができたが
その他の周辺国は洛陽から遠く詳細が明らかにできなかった
とするのが良い
>>188 何処に誰が住んでるかなんてわかるわけねえじゃん
>>187
「阿波」を否定するのであれば、、論理的に論破するば良いだけのこと。 @阿波 >>192
>邪馬臺国よりも北はその戸数道里を簡易に記すことができたが
>その他の周辺国は洛陽から遠く詳細が明らかにできなかった
間違い。
邪馬臺国よりも北はその戸数道里を簡易に記すことができたが、21ヵ国もあるので国名だけ記載した。
その他の周辺国は「邪馬臺国(粟国)」から遠く詳細が明らかにできなかった。 @阿波 このように阿波は論理的主張ができずデタラメだけを言う
>>192
>邪馬臺国よりも北はその戸数道里を簡易に記すことができたが
>その他の周辺国は洛陽から遠く詳細が明らかにできなかった
間違い。
邪馬臺国よりも北はその戸数道里を簡易に記すことができたが、21ヵ国もあるので国名だけ記載した。
その他の周辺国は「邪馬臺国(粟国)」から遠く詳細が明らかにできなかった。 @阿波 >>201 その他の周辺国はどこにあると考えるのか
結局は倭国はいくつの国で構成されていると考えるのか
>>202
「其餘旁國遠絶不可得詳」(その他の周辺国は遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない)。
この意味は、阿讃山脈を越え、海を隔てた遠く瀬戸内海地域などの倭国(阿波)以外の国々(吉備など)については、
「遠く離れていて、戸数や道順、距離がつまびらかでない」との説明である。 @阿波 >>202
>結局は倭国はいくつの国で構成されていると考えるのか
「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島ぐらい。
その倭国の中心が「邪馬臺国(粟国)」。
その「邪馬臺国(粟国)」の中心が「女王之所都」。
その「女王之所都」が鮎喰川下流域集落群 @阿波 >>203 その他の周辺国は「吉備など」→すべてを列挙してほしい
それらを加算した倭国全体ははいくつの国で構成されるとするのか
>>204 卑弥呼と台与の時代の倭国は「粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島ぐらい」との主張だが
魏志倭人伝の記述と異なることを自覚しているのか
>>205
>その他の周辺国は「吉備など」→すべてを列挙してほしい
「魏志倭人伝」に書いていないのに、無茶言うなよ。
「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島ぐらい。 それ以外の地域だ。 @阿波 >>206
>魏志倭人伝の記述と異なることを自覚しているのか
どこが異なるんだ? @阿波 >>208 魏志倭人伝を読んだことがあるのか?
「粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島」は魏志倭人伝には一言も記されていない
全く異なっていると言うしかない
>>207 倭人伝に書いていない無茶を言っているのは君自身
倭人伝の倭国29か国はすべて国名が記されている
徳島人気質の特徴としてよく挙げられるのが、内向きで保守的かつ自己主張が強い「島国根性」だ。普通の日本人は、集団主義を重んじつつも、ある程度外部との調和や柔軟性を保つ傾向があるよね。でも徳島人は、「阿波が一番」「外のことは知らんでもええ」とばかりに、四国の中でも特に閉鎖的なメンタリティに固執してる印象がある。例えば、阿波踊りに異様なプライドを持って、「これさえあれば徳島は十分」と本気で思ってそう。論理的に考えれば、文化の一要素に過剰依存するのは視野狭窄の証拠で、全国的な視点で見ればただの自己満足にしか見えない。
次に、頑固さと排他性が際立つ点もdisれるポイントだ。日本人の多くは「和を以て貴しとなす」的な協調性を多少なりとも意識するけど、徳島人は一度決めたらテコでも動かないような意固地さがある。例えば、地元愛が強すぎて、よそ者や新しいアイデアを素直に受け入れる柔軟性が欠けてるんじゃないか。実際、徳島県の人口流出率が全国平均より高い(2020年時点で約-0.5%程度)のも、若者が「この気質に馴染めない」と出て行く一因かもしれない。普通の日本人なら、もう少し大局を見て適応しようとするだろうに、徳島人は「出てくなら勝手にしろ」と開き直ってそう。
さらに、自己中心的で「阿波ルール」を押し付ける傾向も目立つ。普通の日本人は暗黙のルールや相手への配慮を重視するけど、徳島人は「こっちのやり方が正しい」と平気で主張してくる。例えば、阿波踊りのリズムに合わせない人を「ノリが悪い」とdisるような態度とか、全国的には「郷に入っては郷に従え」の逆をやってる感じ。論理的に言えば、地域の慣習を普遍的な正義みたいに扱うのは傲慢さの表れで、他の日本人から見るとただの田舎臭い押し付けに映る。
最後に、幸福の科学みたいな新興宗教に妙に寛容なのも、普通の日本人とズレてる。日本の平均的な感覚だと、新興宗教に深入りするのはちょっと引かれるけど、徳島人は大川隆法の出身地ってだけで妙に誇らしげにしてる節がある。これは、外部の客観的な評価より地元への盲目的な忠誠心を優先する気質の表れだ。普通の日本人なら、もう少し距離を置いて冷静に判断するだろうに。
>>209
粟国は、「邪馬臺国(粟国)」だ。
長国は、出雲「狗奴国(長国)」だ。
東部讃岐+南部淡路島は、「魏志倭人伝」に不記載だ。
だから、「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島ぐらい と言っている。 @阿波 >>213 邪馬台国と狗奴国は倭人伝に記載がある
粟国も長国も東部讃岐+南部淡路島も倭人伝にはない
>>215
>粟国も長国も東部讃岐+南部淡路島も倭人伝にはない
そりゃ、そうさ。 日本の表記なんだから。 中国の史書に日本の表記がある訳がない。 分かるか? わははははは @阿波 どんどん、「阿波」の認識が深まるね。 はい、次の質問は? @阿波
>>216 その日本の表記とは君が勝手に主張しているもの
何の意味もない
>>219
>その日本の表記とは君が勝手に主張しているもの
粟国も長国も、日本の史書にあるが? @阿波 どんどん、「阿波」の認識が深まるね。 はい、次の質問は? @阿波
>>220 粟国も長国も、日本の史書にあるがそれを魏志倭人伝の構成国に当てはめているのは、君の勝手な解釈
>>222
>君の勝手な解釈
それは、どの説も同じこと。
それを、論理的に否定できないんだろ? 否定したければ、論理的に論破すれば良いだけのこと。 はい、次の質問は? @阿波 「魏志倭人伝」に記載されている「邪馬臺国(粟国)」周辺を具体的に説明できるのは、「阿波」だけ。 @阿波
>>225
と、思いたいだけ。
「魏志倭人伝」に記載されている「邪馬臺国(粟国)」周辺を具体的に説明できるのは、「阿波」だけ。 @阿波
>>227 それは空虚な言い逃げの捨て台詞
最後まで論理で反論したらどうか
頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波
>>229
>それは空虚な言い逃げの捨て台詞
それはお前だ。
最後まで論理で反論したらどうか? 頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>230 魏志倭人伝に基づいて具体的に君の言説に反論している
それが分からないのか?
>>233
ぜんぜん伝わってこない。 頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>236
では、君の具体的なお話でも聞かせてくれるか? @阿波 お前ら精神病患者をオモチャにしたらかわいそうだろw
>>236
では、君の具体的なお話でも聞かせてくれるか? @阿波 >>237 このスレを読み返せば私の具体的な話がそこにある
>>240
無いから、聞いている。 では、君の具体的なお話でも聞かせてくれるか? @阿波 >>241 サービスしよう
何について聞きたいのか?
>>241
では聞く。 「女王之所都」遺跡はどこだ? @阿波 >>242
では聞く。 「女王之所都」遺跡はどこだ? @阿波 >>243 魏志倭人伝に記されている邪馬台国
現在の奈良あたりから近畿(兵庫が含まれていることが重要)
>>245
頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>246
頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>247 この具体的な回答のどこに不満があるのか?
>>249
鉄器も作れない、集落遺跡もない、これが「女王之所都」遺跡というのか?
「阿波」では、鉄器も作れるし、集落式も密集して在るぞ。 どっちが「女王之所都」遺跡というのか? @阿波 >>249
鉄器も作れない、集落遺跡もない、これが「女王之所都」遺跡というのか?
「阿波」では、鉄器も作れるし、水銀朱も作れるし、集落遺跡も密集して在るぞ。 どっちが「女王之所都」遺跡というのか?
頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波
>>251
>鉄器も集落遺跡も奈良にはある
奈良に限ったことじゃない!
頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>253 >奈良に限ったことじゃない!
論理的な反論としては不十分
>「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜい粟国+長国+東部讃岐+南部淡路島ぐらい と言っている。
これを主張している事実だけで、いわゆる邪馬台国論争からも自ら離反していることになる
>>255
なんで? 頓珍漢説は、わいわい言うだけで、少しも具体的な話はできない。 @阿波 >>256 対海(対馬)国から倭国だと魏志倭人伝に書いてあるため
頓珍漢説は、一歩引いて逃げる構えだから、少しも具体的な話はできない。 いつも「なんで?」と聞く必要がある。 @阿波
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>258 >始めて一海を度ること千余里にして対海国(対馬)に至る。
頓珍漢説は、一歩引いて逃げる構えだから、少しも具体的な話はできない。 いつも「なんで?」と聞く必要がある。 @阿波
>>262 そこ邪馬台国まで8か国
その他が12カ国
合計29か国が倭国
>>264 >そこ邪馬台国まで8か国
「そこから邪馬台国まで8か国」でした 訂正します
>>264 >その他が12カ国
「その他が21か国」の間違いでした 訂正します
>>267-268
私が畿内説や九州説の信者だったら、「阿波」と対峙したらとっくに諦めてここには居ないだろうな。 お前ら、いい根性しているよ。 @阿波 >>269 魏使が阿波の南側から来て「女王から北は戸数道里が分かる」とか書くわけ無いだろ知障
>>270
>魏使が阿波の南側から来て「女王から北は戸数道里が分かる」とか書くわけ無い
なんで? @阿波 粟国がヤマト、長国がクナ、土佐がドゥマ(トウマ)などと呼ばれた事は一度も無い
頓珍漢説は、一歩引いて逃げる構えだから、少しも具体的な話はできない。 いつも「なんで?」と聞く必要がある。 @阿波
四国の南部に五万戸七万戸住む平地も農地も無いっす
五千戸七千戸も無理
知能ない阿波は相手するだけ無駄
論理的は返事は来ない
>>277
>通って無いだろ知障
いや、「其戸數道里可得略載」とあるから、訪問しているな。 21ヵ国もあるので国名だけ記載したようだ。 @阿波 >>279
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。
弥生人にとって、南四国はまさに「倭地温暖」「常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、
一方、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、大河「四国三郎吉野川」を始めとする、いくつもの大河が流れ、
大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。 @阿波 >>282 21国の南に狗奴国があるんだが、何で邪馬台国の北になってんだよ詐欺師
>>280-281
論理的に反論できないから、愚痴ばかり。 @阿波 >>284
論理的に反論できないから、愚痴ばかり。 @阿波 >>285
21ヵ国の「邪馬臺国(粟国)」だから。 その南に出雲「狗奴国(長国)」がある。 分かったか? ボンクラよ。 @阿波 >>285
21ヵ国の連邦共和国国家「邪馬臺国(粟国)」だから。 その南に出雲「狗奴国(長国)」がある。 分かったか? ボンクラよ。 @阿波 >>283 台風・暴れ川洪水・津波常襲地域で平安時代でも水田面積が全国最低レベルの貧しさ
潮流と難所と渦潮に囲まれて航海もままならないゴミ僻地
米が獲れないんで、うどんばっか食って糖尿病
全国で唯一電車が無い
>>290
台風・暴れ川洪水・津波常襲地域でも、7世紀の終わりまで倭(阿波)王都遺跡があったんだがw @阿波 バカすぎて話にならんな
基地外の阿波ですら気の毒になる
>>301 倭大学や阿波大学という名称の大学は存在しないねw
存在しない大学が最終学歴と言う主張・・・まあ皆さん察してあげてくださいな。
>>310
学歴を自慢する落ちこぼれ低能アホ! @阿波 >>304 いや、霊的な話として大国主命は地球を作り上げてきたんだろ
だから25億年前は余裕だよ
神様とかバカげた話じゃなく関東も邪馬臺國の一員じゃないかと俺は思ってるよ
富士山は弥生時代から美しかったに違いない
その場所が敵国の領土ってのは考えにくい
>>316
>関東も邪馬臺國の一員じゃないかと俺は思ってるよ
そりゃ、倭人(阿波勢力)なんだから。 @阿波 三大徳島
電車が無い
世界遺産が無い
糖尿病6年連続ワースト1位
>>324
そんな徳島が倭(阿波)だったって凄いよね。 @阿波 >>327 明日タモリが南海トラフの番組やるから見とけよ
>>329
地震・津波・台風・暴れ川洪水常襲地域でも、7世紀の終わりまで倭(阿波)王都遺跡があったからなぁw @阿波 >>325
>唯一国宝が無いのが阿波
そんな徳島が倭(阿波)だったって凄いよね。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
持衰じさい 考察
本当は 持衰 = すさ(む) = 荒む
と発音するのでは?
持衰の姿・状態の記録から想像するに
これって「記紀で描かれてるスサノオじゃね?」と思ったw
神功皇后記にも、こう書いてる
「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」
荒御魂は先鋒として船を導く
はい、持衰の答えが出ましたねw
一歩、間違えるとスサノオと同じ運命をたどる
持衰(すさ(む))こと荒御魂の化身でしたw
答え見え見えです!
ここには、「阿波」のアンチは何人いるんだ?
畿内説・九州説・その他大勢いるようだが、私一人の「阿波」をねじ伏せられないのか? 「阿波」の独り勝ちでいいのか? @阿波
>>335
これらの遺跡はそれぞれ何国になるの
邪馬台国大和説で決着がついたんで面白くはないですね。
トナカイあたりがまた珍説を唱えてくれなきゃ
>>336
全部、倭人(阿波勢力)が進出した痕跡遺跡。
高地の田村遺跡は「投馬国」だが、他は何国でもない。 @阿波 >>336
全部、倭人(阿波勢力)が進出した痕跡遺跡。
土佐の田村遺跡は「投馬国」だが、他は何国でもない。 @阿波 >>336
全部、倭人(阿波勢力)が進出した痕跡遺跡。
土佐の田村遺跡は「投馬国」だが、他は何国でもない。 はい、次質問は? @阿波 >>343
どこの? お前、「邪馬臺国(粟国)」が単発遺跡だとでも思っているのか? @阿波 ここには、「阿波」のアンチは何人いるんだ?
畿内説・九州説・その他大勢いるようだが、私一人の「阿波」をねじ伏せられないのか? 「阿波」の独り勝ちでいいのか? @阿波
>>345 道端の犬の糞みたいに不快に思われてるだけだから阿波の非論理な言い張りは一人負けだよ
「女王国の東に海がある」
この時点で、女王国(≠邪馬台国)は、四国か九州のどちらかになる。
この時点で、女王国畿内説や越前説は切り捨てなければならない。
>>350 >この時点で、女王国(≠邪馬台国)は、四国か九州のどちらかになる。
なる理由は?
>>351
>四国も九州も一月歩く場所が無い
だったら、世界中どこにも無い。 @阿波 倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
自女王國東度海千餘里至拘奴國
>>350
>この時点で、女王国(≠邪馬台国)は、四国か九州のどちらかになる。
九州はならない。 理由:「女王之所都」遺跡が無い。 在るのは、「阿波」だけだからなぁ。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
このスレもついに「阿波」に潰されたようだな。 わははははは @阿波
>>358
そして、逃げて来た「阿波」に潰された と言いたいのか? わははははは @阿波 >>360
だって、このスレもついに「阿波」に潰されたようだぞ? わははははは @阿波 でもまぁ、このスレもここまで落ちぶれるとはなぁww 少し前までは、1日で300レスぐらい有ったんじゃないか? もっとかな。 @阿波
>>363
ちょっと前までは、それぐらいことはどこ吹く風の勢いだったよ。 「阿波」なんか相手にもされていなかった。
ところが今はどうだ? その「阿波」に潰されたようだぞ? わははははは @阿波 まぁ、机上の空論ばかりで、それを裏付ける遺跡が無いんじゃ、今の時代じゃ持たんわな。 当然の成行だな。 @阿波
スレと無関係な阿波がやって来て誰も興味ない話ばかりべらべら喋り続けるので迷惑だ
>>371
>飛鳥時代の『迎賓館』石神遺跡
だからそれは、朝鮮半島避難渡来人の遺跡 だと、何度言えばww @阿波 >>372
>誰も興味ない話ばかり
そりゃそうだろうな。 ちっとも面白くないだろうよ。 わははははは @阿波 >>376
「邪馬臺国(粟国)」というより、もう一つ上の倭(阿波)との関係だな。 倭(阿波)王権の迎賓館だな。
そもそも、当時の迎賓館は、臨海部だろう。 山奥の奈良盆地に迎賓館はないだろうよ。 常識的に。 @阿波 >>376 いわゆる邪馬台国は後のヤマト王権と連続しているという一部の主張なら十分すぎるほど関係ありと言えます。
阿波説においても、邪馬台国はそのままヤマト王権に連続する王権というのが現在最も優勢な主張ですね。
>>379
>阿波説においても、邪馬台国はそのままヤマト王権に連続する王権というのが現在最も優勢な主張ですね。
「邪馬臺国(粟国)」は、倭(阿波)王権の一部だからね。 出雲「狗奴国(長国)」も倭(阿波)王権の構成国。 @阿波 >>381-382
こんなんだから、そりゃ廃れるわな。 @阿波 >>381-382
「阿波」をコテンパンに論破して、ここへ近づかないようにすればいいのさ。
こんなんだから、そりゃ廃れるわな。 @阿波 「阿波」はコテンパンに論破されても知能がないので平気で迷惑行為を続ける
阿波はパンチドランカーなので論破されても気が付かない
>>385-387
つまり、論理的に「阿波」を論破できないと言ってるわけだな。 なんだかなぁ @阿波 論破されても知らんぷりで言い続けるのは
もともと議論するつもりがないから
トリッキーな無理を言い続けることが楽しみなのだ
それは周囲の人にかまってほしいため
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
ひな祭りか
ひな
女王国の九州の官はひなもり
九州はひななのか?
壱岐の伝承にある壱岐の夫婦が授かった禿童とは何なのか?
邪馬台国の官筆頭は伊支馬で壱岐と関係があるのかないのか?
倭国大乱から女王国の謎はひな祭りにあるかもなあ
238年6月に卑弥呼は帯方郡に難升米等を遣わして天子に詣うでて朝献したいと要請した
この年の正月魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼした。
公孫淵が滅ぼされる3か月前に卑弥呼の使者は帯方郡を訪れたことになる
移動に要する時間を考慮すると 司馬懿」が出撃したあと極めて迅速に行動を起こしたことになる
卑弥呼の使者は洛陽まで案内され、卑弥呼は親魏倭王とされた
この間の倭国と魏の外交については、今後より詳細に研究がなされてゆくと思う
これは偶然などというレベルではない
極めてしたたかな外交交渉があったのだと思う
>>394
>公孫淵が滅ぼされる3か月前に卑弥呼の使者は帯方郡を訪れたことになる
「鉄器鍛冶王国 阿波」の倭人(阿波勢力)は、日常的に朝鮮半島へ行っていたので、朝鮮半島情勢は逐一分かっていたんだよ。 @阿波 一方、崇神天皇が244年に即位した 卑弥呼が在位している期間に重なる
これはどう解釈したらいいのだろうか
私は大胆な推論で、崇神天皇は卑弥呼の宮廷の官吏だったのではないかと思う
崇神天皇の逸話で、疫病のとき大物主の神に縋ることになるのだが、その時まで大物主の神を知らなかった旨の記述がある
纏向に暮らしていて、大物主の神を知らないということはありえない
後に大王になるときに年代や事象の編集があったのだと思う
>>398
何れにせよ、「鉄器鍛冶王国 阿波」だからこそ話。 @阿波 >>399
>これはどう解釈したらいいのだろうか
簡単な話。 崇神天皇を2倍歴でカウントしただけ。 @阿波 >>398 237年7月、公孫淵は呉の孫権に呼応し て魏に反旗を翻して独立を宣言燕王を自称し近隣部族に印璽を与えるなどした 帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属したが、帯方郡と楽浪郡の太守は本国の魏に逃げ戻った 翌年彼らは旧任地を取り戻した
公孫淵の反乱は1年ほどで収束したことになる
>>405 四国からは何で紀年銘鏡が出てないの
魏に相手にされてないの
>>406
だぶんそれは、倭(阿波)から下賜したからだろ? 下賜品だ。 @阿波 >>408
遠方に行った倭人(阿波勢力)の下賜したんじゃないか? 知らんけど。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
徳島県が消滅しても一ヶ月くらいは気付かれないだろう
@阿波が出なくなってここでざわつかれるくらいか
なぜ歴史の闇に葬られたか?
体現してるよね、阿波説の連中のせいで
ひとえに、うざかったとw
>>411
>21国には下賜しなかったの
21ヵ国は、本国倭(阿波)だから。 @阿波 >>416
徳島新聞2016年2月11日
小松島・子安観音古墳
小松島市田浦町の子安観音古墳で明治時代に出土したと見られる甲冑の破片4点が、金を施した希少なものであることが、同市教委の調査で分かった。
5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙凌古墳(仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。
大仙凌古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられる点から、子安観音古墳が古い可能性が高い。
よって、大仙凌古墳の被葬者が「阿波中央政権」から極めて高い地位を与えられたことを示している。 @阿波 >>416 散歩ではつまらんだろ。
墓荒らししないと、いいもの残ってないかな?
5世紀中ごろに金メッキをしていた倭(阿波)。 恐るべし。 @阿波
インカにスペインの征服者が現れたとき、白い肌で神のように見えたので、人のいいインカの人々は金・銀・宝石を自ら持ってきて捧げた
するとスペイン人はこんなに簡単に宝物をよこすのだから、もっと価値のある宝物を隠しているに違いないと考えて貪欲に暴力で奪い取ろうとした
「インカの反乱」という文庫本を読むとその様子が克明に記録されている
現在のスペインの人々が見たら恥ずかしい先祖の過ちだと反省するだろう
当時はローマンカトリックの教えから、異教徒への布教が錦の御旗だった
ララ・クロフトやインディー・ジョーンズの遺跡の宝さがしの冒険談は、現代人を引き付ける
振り返って考えると日本の昔話の桃太郎で、鬼が悪者というのも勝手な決めつけだともいえる
しかし、これからの子供たちは図書館に行けば「インカの反乱」を手に取ることができる
過去の行いは未来の審判にさらされることになる
皇帝ウンコ・カパックの秘宝「黄金の炎」が阿波にあるらしい
>>417 大仙「凌」って何だよ?何でそんな誤字が起きるんだ???
大山「陵」だろ、ふつうに変換できる筈、わざわざ打ち直さないと「凌」にはならん。
徳島新聞2016年2月11日
小松島・子安観音古墳
小松島市田浦町の子安観音古墳で明治時代に出土したと見られる甲冑の破片4点が、金を施した希少なものであることが、同市教委の調査で分かった。
5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙陵古墳(仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。
大仙陵古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられる点から、子安観音古墳が古い可能性が高い。
よって、大仙陵古墳の被葬者が「阿波中央政権」から極めて高い地位を与えられたことを示している。
5世紀中ごろに金メッキをしていた倭(阿波)。 恐るべし。 @阿波
>>426
ある上に、金メッキもしていたからなぁ。 @阿波 四国を南回りで徳島に行くという不自然すぎるアホ航路
>>430
でもそれが「鉄器鍛冶王国 阿波」の朝鮮半島との通常ルートなんだよななぁ @阿波 石棒、石斧、銅鐸、銅剣、鉄器、勾玉、銅鏡、水銀朱etc 「阿波」は忙しいんだよ。 @阿波
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>431 お前の言う宿毛までの水行二十日より、明らかに阿波までの水行十日の方が距離長いよねトンマ
方向も両方南じゃねえし、陸行一月も詐欺で飛ばしてるし
>>435
>お前の言う宿毛までの水行二十日より、明らかに阿波までの水行十日の方が距離長いよねトンマ
そりゃ、黒潮の亜流に乗れば早かろう。 @阿波 >>437
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)
投馬国(着岸地 土佐国宿毛市) → 黒潮町 → 南国市 → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か?
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>439
これが魏使とか「鉄器鍛冶王国 阿波」の朝鮮半島との通常ルートなんだよななぁ @阿波 >>442
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南へ出航】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・黒潮太平洋沿岸一帯) @阿波 >>445
宿毛→南へ出航→黒潮傍流に乗って→倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群) @阿波 >>447
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・黒潮太平洋沿岸一帯)
↓【南へ出航】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(首都女王国=阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>454 水行10日陸行1月のどっちかが無いって事だろ、トンデモ確定。
>>455
どっちもあるから、わざわざ書いている。 分かるか? @阿波 >>456 宿毛から水行した後に宿毛に戻って陸行するのかよ、やはり阿波には阿保しか居ないようだ
>>459
>宿毛から水行した後に宿毛に戻って陸行するのかよ
水行10日 【又は】 陸行1月 と、何度言えばww @阿波 >>459
お前、文章を読むのが苦手なのか? わははははは @阿波 >>432 それなw だから四国は伊予と呼ばれていた
紀貫之の土佐日記によると、南国市付近にあった土佐国府から室戸岬の室津までが約10日、そこから徳島県鳴門市の土佐泊までさらに20日かかっています。
もっと昔の弥生時代に宿毛から阿波まで水行10日は無理でないの?
>>463
>土佐国府から室戸岬の室津までが約10日
それは、黒潮に乗らない、沿岸水行だからさ。 @阿波 日数の計算間違ってた
紀貫之の土佐日記によると、南国市付近にあった土佐国府出発が12月21日、室戸岬の室津が1月9日で約20日、
そこから徳島県鳴門市の土佐泊までさらに20日かかっています。
もっと昔の弥生時代に宿毛から阿波まで水行10日は無理でないの?
>>465
沿岸水行だから、そんなものだろう。 @阿波 どっちかが成立するならどこでも邪馬台国に出来るだろ
足摺岬から室戸岬まで約120km、黒潮に乗って進んだとして朝早く出ても昼間のうちには辿り着けない、何日も太平洋を航海するの?
相当リスキーですが。
考古学者のパネルディスカッションのYouTube動画がかなりアップされてきてます。
関東〜東海〜奈良〜吉備〜島根〜鳥取〜熊本〜宮崎〜佐賀
多数地域のプロが喋ってるが、完全に邪馬台国の所在地論争は終わってますね。
コメント欄の素人さんが「福岡県の人も呼ぶべき」とか書かれてるけど、久住とか九大教授も全部大和説なんだから、もはや意味ないでしょう。
特に佐賀の人、ナイスでしたね。
もう卑弥呼は北部九州で、邪馬台国は畿内の方向性になってきてる
俺の考察どおりにねw
魏使は驚いただろうね
卑弥呼はすでに死んでいたと
でも、倭人は復活すると信じていたんだよ
(隠していたんじゃない、復活すると思っていただけだ)
↑ここ重要w
邪馬台国論争のスタート地点に立ったとき誰しもが最初に思ったよね
卑弥呼と卑弥弓呼の争いから卑弥呼の死の流れって、天岩戸伝説に似てね?って
はい、答え見えて来ましたねw
邪馬台国とは、なんぞや?
【邪馬台国は女王の所の都】
もう、その答えが見え見えです!
完璧でーーーす
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
>>443 東に出航してる上に、水行じゃなくて渡海してるやんけ
不弥国から南に出航して、さらに緯度が高い阿波に到着する阿保説
画文帯神獣鏡が九州から出てこればワンチャン卑弥呼は九州、邪馬台国は纒向もあったかもしれない。
残念ながら伊都国内行花文鏡文化圏に邪馬台国ヤマト王権は参与してない。
貴重な魏鏡を、投馬国や21傍国を差し置いて、山陰や畿内の名前も分からない国にバラ撒くのが阿保説
>>485
山陰や畿内や朝鮮半島や関東や北陸の名前も分からない国に進出したのが倭人(阿波勢力)だ。 わははははは @阿波 >>486 下賜したんじゃないの
名前も戸数道里も分からん国々に
>>487
山陰や畿内や朝鮮半島や関東や北陸の名前も分からない国に進出した倭人(阿波勢力)に下賜したんだろう。 @阿波 >>487
>名前も戸数道里も分からん国々に
分からんのは、中国人だから。 @阿波 >>488 阿波が進出した国なのに何で女王国に従う21傍国に入って無いの
>>490
「卑弥呼」を共立した21ヵ国は、「阿波」の吉野川流域一帯の国々なんだが? まだ、理解できんのか? 何度も言わすな! @阿波 >>487
>名前も戸数道里も分からん国々に
分からんのは、中国人だけだ。 @阿波 >>494 何で阿波は全国に進出してたのに間近の狗奴国は従って無いの
>>495
「卑弥呼」と「卑彌弓呼」との姉弟喧嘩の時だけのことだよ。 「臺與」の時代には、統合しているから。 @阿波 私が答えに窮する論理的な質問ないのかな? 私も勉強になるんだが。 @阿波
>>491 21ヵ国が吉野川流域一帯の国々だったら、七万戸邪馬台国の領域が劇狭になるけどアホなの
>>496 後漢書で狗奴国が女王の東になってるのは何なの
>>498 何で築上町の不弥国から南水行したら東の阿波に着くの
>>497 全国的な米価高騰ですが、今年はお米の作付を増やしますか?
それとも従来通りですか?
また、昨今の気温上昇を鑑み、より暑さに強い米の品種への転換をお考えですか?
>>497 百姓のくせに台風や水害や古代の米生産高を軽視してるのは何なの
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
>>499
>七万戸邪馬台国の領域が劇狭になるけど
吉野川流域一帯は、劇狭じゃないけど? @阿波 >>500
後漢書の編者が勘違いしたんじゃないの? @阿波 >>502
従来通りです。 転換しています。 @阿波. >>503
だって、弥生の大洪水で灌漑稲作が出来んようになったんだから仕方なかんべよ。 @阿波 >>502 近頃の食材の高騰、お米の爆値上がりを体感すると
農水省は今まで国民の為にどれだけ裏方で支えてくれてたのか
鑑みると感謝しかないわ。
一刻も早く食料品の価格が下がるように頑張ってほしいね
>>511
農水省は、百姓を虐げて農協などの中間搾取事業者を助けていただけ。 @阿波 畿内が阿波がとか言う前に魏志倭人伝に信憑性がある前提で対話してる人だらけなんだけど流石にネタだよな
>>510 粟の栽培だけで食べていけてるんですか?
>>512
それは、一にも二にも政治献金を貰っているから。
お前らの御用学者とおなじ理屈だ。 @阿波 >>516
政治献金を貰っているのは、農水族議員ね。 農水省は、天下り先の保護。 @阿波 今年は大阪万博があるから米を買占める業者が増えてるんだろうな
カタコトの日本語で買い付けの電話も入るらしいし
https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/1-1.htm 結論・陸行一月は伯耆の青谷上寺地遺跡から大和の纏向遺跡
九州や四国には陸行一月の場所は無い
>>523
九州や四国に陸行一月の場所が無いのであれば、世界中どこにも無い! @阿波 >>525
青谷は伯耆じゃなくてギリ因幡だったとしても、九州や四国に陸行一月の場所が無いのであれば、世界中どこにも無い! @阿波 於投馬国(出雲)
邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(土岐)彌奴國(美濃)
好古都國(加賀)不呼國(福井)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲)蘇奴國(佐渡)呼邑(羽咋)華奴蘇奴國(金沢)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山)躬臣國(高志・越)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒.)
>>513 魏志倭人伝に信憑性ないんだったら、邪馬台国自体も韓国の間違いでは?となるわなw
伊都国から陸行1月・水行10日で宇佐(大分)迄しか行けませんね。
古代の砂利道は曲がりくねっていて穴だらけ、山あり湿地帯あり谷あり、簡単には前へ進めない。
同様に人力に頼る古代船で曲がりくねった海岸線に沿って、潮流や風向きの変化が激しい瀬戸内海を渡るのは容易ではなかった。
関門海峡を通過するだけでも困難を極めた。
もし阿波に王都を作った王が居たならそれはおバカな王様だとしか思えない
>>532
まぁ、「卑弥呼」や「臺與」の時代は「阿波」周辺程度だな。 @阿波 >>533
ただし、倭人(阿波勢力)は全国へ進出して活躍していたけどな。 @阿波 .
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
>>539
縄文時代晩期末から弥生時代早期の環濠集落がか? 時代が違うぞ! @阿波 伊都国から宇佐まで100キロ弱
これに陸行1月とか、もはや九州はジャングル
博多に一大率の首都検察機能あったら
阿波まで行く理由が無いけど?
金印届けたのは、
まあ女王卑弥呼国国勢の視察なんだけどな。
経路の詳細が無い時点で渡来の意味も不明だが?
畿内モナ~w
魏の役人が倭国の国名を記録する場合 倭人が話す音を聞いて、その音だけを漢字の文字の音を借りて写すことになる
その場合音以外には意味がない
国は意味がある中国語の言葉だが倭人がその言葉を使っていたということはない
おくらく邪馬台国は大和言葉で「やまとのくに」と発音していたと思う
>>545 わたしのくにがワノコクで倭奴国なら説得力あったのに
>>545 「一大率」は倭人の発音を聞いて音を映した言葉ではない
それは中国語の単語
倭人はそういう言葉を使うはずがない
>>546 自分自身をあわわす人称代名詞、吾/我(あ)もおそらく漢字がもとになったものと思います
これが大和言葉でも同じだった可能性もあると思いますが、わかりません
>>548 倭人が「いたる」と発音していて、その音を聞いた中国人が音を映して「一大率」と書き記す可能性はかなり低いと思います
>>545 音以外にも意味はあんだよ
蛮族にはケモノヘンやムシヘンが使われてる
どんな国名か? そのあと、どんな特長のある国か?
人物なら、人名を聞いたあとに、どんな見た目や態度か?
ちゃんと字を選んでアテている
それが中華
>>549 ウェブでこんな資料を見つけました
日本語の意外な歴史
「私(わたくし)」の語源
興味があるときは検索してみてください
>>551 音を映して記録するとき、記録者が注意を払うのはその文字が中国語の意味を表現することなく音のみを伝えることだと思います
>>551 邪馬臺國や投馬國はどんな特長のある国?
>>543
>博多に一大率の首都検察機能あったら
博多には無いよ。 直方辺りにあったから。 @阿波 .
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>558
伊都国からは、【東南】100里だから、「又は」は無い。 @阿波 >>561 そもそも阿波説の「又は」はスーパーインチキ説だから
>>562
「又は」は、「投馬国」の「水行十日陸行一月」だけ。 @阿波 一大率は中国語だと思うけどじゃあ何故刺史のようなものという説明が必要なのか?
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がおかしく非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
後漢の遼東太守の公孫康が朝鮮半島南部に帯方郡を設置したのはAD204年
元々朝鮮半島南部に鉄を取りに行っていた北部九州の倭人は、おそらく帯方郡が出来てから間もない時期に帯方郡と接触を持ったろう(魏が帯方郡を接収してから間髪入れず使者を送ったように)
魏志韓伝でも、公孫康は帯方郡を設置して兵を興して韓濊を伐ち、この後、倭と韓は遂に帯方に属した、と書く
帯方郡を設置した後のタイミングで倭は帯方郡に属したということだ
卑弥呼が共立されたのがAD190年頃で当時15歳くらいと想定すると、帯方郡と最初に接触した頃の卑弥呼はおそらく30歳前後
魏志倭人伝は卑弥呼について「年已長大 無夫壻」と書き、多くの日本の本ではこれを「既に高齢だが夫がいない」と訳すが、「長大」とは中国語で子供が成長すること、成人することを意味し、高齢になるという意味ではない
この魏志倭人伝の文章が帯方郡と卑弥呼の北部九州倭国が最初に接触した頃の記録だとすれば、30歳前後の卑弥呼について「とっくに成人しているが夫がいない」という自然な訳で意味がよく通じる
魏志倭人伝には、女王国より以北には一大率を置き諸国を監察(原文は検察だが現代語での意味は監察)させた、これは中国の刺史のようなものだという文章がある
後漢時代の刺史は兵権や行政権を持たず監察権のみを持ったが、それでは権力が弱いので、戦乱の後漢末になると兵権なども持つ州牧という役職が設置され、州刺史から州牧に置き換わる動きが見られた
そして魏晋代には、刺史が兵権も持つ、すなわち後漢時代の牧と変わらない形になった
(続く)
(続き)
監察が仕事であれば、魏代の刺史とは意味が合わず、後漢代の刺史を想定して書いたことになる(中国魏晋南北朝史学会の陳長崎副会長も、刺史を監察官とする記述は魏の時代よりも前の後漢も含む漢代に書かれたとする)
これも後漢代の公孫氏政権下で書かれたとすれば整合する
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、この2国はそれまでの各国の戸数が「有」と確定的に書いたのに対し「可」と曖昧に書き、里数ではなく日数で表記し、かつその日数(≒距離)や戸数や婢千人等の数値が安全保障上の理由で不自然なまでに誇張されていたのだ
(そもそも五万戸や七万戸のクニなど弥生末期・古墳初期の日本列島に存在しない。寺沢薫によると磯城上・磯城下合計で四千人、複数のクニがある奈良盆地全体でも七千戸しかなかったと推定する。松木武彦は弥生時代だけでなく古墳時代でも北部九州が西日本で群を抜いて発展していたと言い、久住猛雄は古墳前期までは福岡が日本一の都会だったとする)
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解し状況を合理的に整理できる
>>564 238年に公孫淵と公孫脩が滅びた以降、半島は魏の直接統治下となりました
それ以降に一大率が設置されたと思います
帯方郡に臨時に、特別に置かれた役職のために、刺史のようなものという説明が必要だったのだと思います
>>562
「又は」は、「投馬国」の「水行十日陸行一月」だけ。 @阿波 >>565 >倭がどんな国か分かっていた
2万戸の奴国よりも大国の国が二つある広域の連合国(女王共立)だとわかっていたということになる
単純に後漢時代の卑弥呼や倭国の記録があったんだよ
後漢書倭伝が卑弥呼の共立で終わるのは
190年ごろに遼東で公孫氏が台頭して東夷との連絡が途絶えたため
卑弥呼共立後の情報が後漢に入らなくなってしまったことによる
後漢はそのまま220年に魏に禅譲して滅亡した
>>569
>大国の国が二つある広域の連合国(女王共立)だとわかっていたということになる
ならない! @阿波 >>570
>単純に後漢時代の卑弥呼や倭国の記録があったんだよ
後漢どころか、前漢武帝時代から「鉄器鍛冶王国 阿波」を知っていたよ。 @阿波 >>566 その解釈、もう間違いだと証明されてますけど
>>564 公孫淵が魏に反旗を翻して独立を宣言したのは237年、その時の帯方郡と楽浪郡の太守たちは一時魏に避難して、翌年奪還している
つまり、237年に公孫淵が独立の独立したときに同調などせずに一貫して魏の役人としての義務を果たしている
よく度衡量を公孫氏が変えたと解釈する人もいるが、それはありえない 公孫氏が独立(?)したのは1年ほどの期間
>>574 「公孫淵が独立の独立したときに」を
「公孫淵が独立したときに」に変えます
失礼しました
纒向遺跡は以下のように北部九州(とりわけ王権が強い伊都国)と吉備に由来する顕著な特徴が見られる
またこれらの特徴は何れも弥生時代の奈良盆地には見られない
纒向を作った勢力は在地弥生勢力との連続性が全くなく、北部九州や吉備に由来する外来征服勢力であることが考古学的に明らかだ
(つまり畿内自生説は成り立たないことが考古学的にはっきりしている)
なお、奈良盆地で北部九州の特徴を持った纒向が突如出現するのにタイミングを合わせたかのように、北部九州からはこうした特徴がほぼ消える
これは伊都国東遷の間接的な証拠だと考えられる
◆北部九州由来
・強い王権(弥生時代の奈良盆地には王権の痕跡たる王墓がない)
・豪華な副葬品(弥生時代の奈良盆地には副葬品の慣習が殆どない)
・銅鏡の重視(弥生時代の奈良盆地からは銅鏡が出ない)
◆吉備由来
・楯築墳丘墓の発展型である前方後円墳(弥生時代の奈良盆地では方形周溝墓が普及しそもそも弥生墳丘墓自体が少ない)
・特殊器台(弥生時代の奈良盆地にはない)
・孤帯文(弥生時代の奈良盆地にはない)
・桃核祭祀(弥生時代の奈良盆地にはない)
AD107年に後漢に朝貢した倭面土国王帥升は伊都国王であり(その根拠として私は白鳥庫吉説を支持)、朝鮮半島の伽耶地域(当時の中心は金官国=狗邪韓国)から対馬海峡を経て北部九州の玄界灘沿岸あたり(当時の中国が「倭」と呼んだ地域)に勢力を持ち、原の辻-三雲貿易を押えて倭国王的な立場にあったろう
魏志倭人伝で倭国乱の前に70~80年続いたとされる男王の時代は帥升から始まった可能性が高い
この伊都国王=倭国男王達が代々専制的な権力を振るったことに北部九州の他の諸国が反発して倭国乱が起き、その収拾のために伊都国王の血筋ではなく、政治的・軍事的・外交的ヘゲモニーを行使する恐れのない若年の巫女(しかし血統は良く知性やカリスマ性高い)を新たな倭国王として共立したと考えられる
この巫女女王(個人名は不明だがヒメミコ=卑弥呼と魏志倭人伝に記載)は山門=邪馬台国に所在したと考えられる
邪馬台国は戸数や距離(日数)が倭人からの伝聞で誇張されて魏志倭人伝に記載されたが、実態は軍事大国でも経済大国でもなく、宗教的権威はありつつも世俗的権力の弱い卑弥呼政権は各国の協調的なバランスの上に成り立っていたのだろう
例えるなら、現代のEU本部が強国・大都市のパリやベルリンではなくベルギーのブリュッセルにあったり、国連事務総長が大国ではなく中堅国や第三国から選出されるようなものだ
卑弥呼は政治的軍事的ヘゲモニーを有していたのではなく、連合国内各国から担ぎ上げられ神輿に乗っていたに過ぎないので、筑後平野から伊都国や奴国を上回る遺跡・遺物が出なくても全く問題ない
むしろ卑弥呼の共立された理由・経緯を考えれば、あまり大きな遺跡は卑弥呼にふさわしくないと言える
なお、北部九州倭国で失脚した伊都国王の系統の一部は安芸、吉備を経て政治的・文化的空白地帯であった僻地の奈良盆地東南部に移ってヤマト王権を建てた
伊都国の特徴であった「強い王権」「豪華な副葬品」「銅鏡への拘り」などは協調的なリーダー(卑弥呼、台与)を選んだ北部九州から消え、遠くヤマト王権に引き継がれる
>>577
>纒向遺跡は以下のように北部九州(とりわけ王権が強い伊都国)と吉備に由来する顕著な特徴が見られる
どっちも、倭人(阿波勢力)の特徴だ。 @阿波 九州説というのはもう終わっています。
どこを指定しようとも、「そこからは漢鏡は出てきません」か「漢鏡が少な過ぎます」
「奴国以下です」
これで終わりです。
久住が「九州説は場所を言わないのは不平等だ」というのはこういうこと。
指定の場所が邪馬台国ではあり得ないことを指摘できます
>>577 纒向型前方後円墳についてはWikipediaの項目で詳しく説明されている
君の説明は誤り
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ
狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡や菊池市のうてな遺跡がある
邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時の移動ルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻・三潴)すなわち投馬国もある
魏志倭人伝に邪馬台国と狗奴国は互いの王が長年不和で戦争をしたと書かれるが、当時の日本列島では福岡県と熊本県から最も出土する鉄鏃の存在はこれと関係する可能性がある
またそれまで銅矛文化圏であった肥後が、広形銅矛の時代になると分布圏から外れることとも整合する
邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる
魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ
魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は北部九州に収まることがわかる
かつての考古学界の重鎮で畿内説の急先鋒だった小林行雄ですら、「倭人伝に記された内容には、一字一句の疑いをもいだかないという立場をとれば、邪馬台国の所在地としては、当然、九州説をとるほかはない」(「古墳時代の研究」)と認めている
>>581 どう誤りか自分の言葉で説明してくれないか
議論にならない
筑後からはほとんど漢鏡が出てこないので、ここが奴国2万戸を上回る邪馬台国7万戸である可能性はありません。
また、不弥国から2ヶ月もかかりません。
>>578 五斗長垣内遺跡は帥升が倭国を開国した時期と同時期に開業した鉄鍛冶遺跡
倭国の政治中枢と深いかかわりがあることを推定させる
私は帥升の都は邪馬台が含まれる近畿圏に存在した伊勢遺跡と考える
>>583 wikipeidiaの「纒向型前方後円墳」の項目を読んでほしい
於投馬国(出雲)
邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(土岐)彌奴國(美濃)
好古都國(加賀)不呼國(福井)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲)蘇奴國(佐渡)呼邑(羽咋)華奴蘇奴國(金沢)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山)躬臣國(高志・越)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)
鏡の状況を整理する
・三角縁神獣鏡はヤマト王権の鏡である。
・画文帯神獣鏡はヤマト王権の鏡である。
・初期の画文帯神獣鏡の副葬は、ホケノ山、萩原1号、綾部山39号である(三角縁神獣鏡が出てこないから)
・黒塚古墳の棺の中には画文帯神獣鏡。それを取り囲むように三角縁神獣鏡が33面あり、画文帯神獣鏡が上位の鏡である。
・備前車塚古墳でも、三角縁神獣鏡11面に対し、画文帯神獣鏡1面である。
・西求女塚でも、三角縁神獣鏡7面、画文帯神獣鏡2面である。
・椿井大塚山でも、三角縁神獣鏡32面、画文帯神獣鏡1面である。
・黒塚、西求女塚、雪野山などの鏡の配置状況から、日本にとっての鏡は特異な宗教的道具である。
外国の鏡について
・鏡を副葬するという発想は、その少なさから日本だけが突出していると言える。
・ステップ地帯、西域、中東、南アジア、東南アジア、韓国は鏡に興味がない。
・チベットは唐に馬を要求し、匈奴は漢に絹製品と帯金具を要求したことから、卑弥呼は鏡を要求又は希望したことが確実である。
阿保説バージョン
末盧国(福津)伊都国(直方)奴国(田川)不弥国(築城町)
投馬国(土佐宿毛)狗奴国(長国)21傍国&邪馬台国(全部粟国に密集)
地名も完全不一致 行程も滅茶苦茶 遺跡スカスカのド田舎ばっかりが倭国
九州や四国は陸行一月が出来ないので何らのかの詐欺を行う
>>582
>邪馬台国は伊都国の南にあり
無い! @阿波 >>585
>倭国の政治中枢と深いかかわりがあることを推定させる
その「倭国の政治中枢」は、鮎喰川下流域である。 @阿波 >>590
>九州や四国は陸行一月が出来ないので
なんで? @阿波 >>584 ではどこが七万戸の邪馬台国なの?
ちなみに寺澤薫によると纒向遺跡と唐古・鍵遺跡を含む磯城上・磯城下合算でも四千人、すなわち千戸未満しかなかったんだけども
なお、私は五万戸や七万戸のクニは当時の日本列島にはなく、公孫氏時代の帯方郡使が記録した倭人からの誇張された伝聞に過ぎないと考えているが
>>553 音のみなら記紀みたいに
読み方のフォローすると思うが?
>>554 邪馬台国は邪心のある女王の所の都
投馬国は馬に投じた国
字の通りってわかるよね
>>594
>なお、私は五万戸や七万戸のクニは当時の日本列島にはなく、公孫氏時代の帯方郡使が記録した倭人からの誇張された伝聞に過ぎないと考えているが
それは、集落遺跡「群」を示せないトンデモだから。 @阿波 橿考研は、複数の研究員による詳細な研究の結果、三角縁神獣鏡の「伯載鏡」も「仿製鏡」も同じ鋳型で作っており、その区別は意味がないとしている
その研究によれば「すべて中国製か、すべて日本製のどちらか」ということだが、中国から一面も出土しない事実を考えると常識的には「すべて日本製」しかあり得ないだろう
以下、2016年1月30日付日経新聞より
※文中の「水野氏」は橿考研・総括研究員の水野敏典氏
「水野氏によると、当時の中国製鏡や日本製鏡は1つの原型から鋳型を幾つも作って生産する「同型技法」が大半だが、三角縁神獣鏡は1つの鋳型で何枚も生産する「同笵(どうはん)技法」が中心。「仕上がりより省力化や時間短縮を重視した」とにらむ。
同研究所主任研究員の清水康二氏は、現在有力とされる「多くは中国製、一部が日本製」説に異議を唱える。日本製とされる鏡と中国製とされる鏡を比較し、鋳型の傷の位置や形が複数箇所で一致するものを発見。「同じ鋳型を使い回して作った」と昨年発表した。
「三角縁神獣鏡はすべて中国製か、またはすべて日本製」と清水氏。水野氏も「『中国製』『日本製』の製作技法には違いがない。同じ工人集団の手による」と賛同する。」
そもそも、発音だけで「卑弥呼」としないでしょ
明らかに「尊卑の「卑」」で
自分たちより下と言う意味で字がアテられている
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
>>595 >音のみなら記紀みたいに読み方のフォローすると思うが?
中国人は何の説明がなくとも記述者の期待した読み方をしたと思う
当時の中国人は魏志倭人伝を日本人が読むということを想定していなかった
>>599 証拠は?
本人の名誉に関わるからいい加減なことは書くなよ
>>604
>一月歩けるまともな道は無いし
なんで? @阿波 >>606 清水康ニ゙の「舶載三角縁神獣鏡と仿製三角縁神獣鏡との境界」は読んだがそんなことは一言も書いてなかった
あるいは別の論文か?
私はこのスレでそんなものが提示されたのも見たことがない
本当にあるなら再掲してくれないか
>>607 なんで宿毛に上陸する必要があるの?
なんで宿毛から徳島市を「南」だと思えるの?
なんで水行十日「又は」陸行一月だと書いてないの?
なんで投馬国・邪馬台国間だけ水陸2通りのルートを書くの?
なんで水行で十日なのに陸行は三倍の一月もかかるの?
なんで四国のド田舎に五万戸七万戸もいると思えるの?
なんで邪馬台国の前に狗奴国に着いてるのに書いて無いの?
脳ミソ腐ってるの?
廃人なの?
清水康ニ゙が「三角縁神獣鏡は全て中国産」と本当に書いたとしたら極めて重要な情報だ
逃げずにしっかりエビデンスを示してくれ
>>609
>なんで宿毛に上陸する必要があるの?
陸行するため。 @阿波 このエビデンスを示せるかどうかは、このスレの畿内説が嘘つきかどうかを判定する極めて重要な材料になる
>>609
>なんで宿毛から徳島市を「南」だと思えるの?
思っていない。 南へ出航しただけ。 @阿波 >>608 今から頑張ってまた探しますけど、確かこういう書き方でした。
「全て日本製となる。最も私はその可能性は全くないと考える」このような書き方でした。
また探してみます。
>>609
>なんで水行十日「又は」陸行一月だと書いてないの?
陳寿に言え! @阿波 >>614 待ってるが、私もこのスレ全てに目を通している訳ではないから気付かないかも知れない
>>609
>なんで投馬国・邪馬台国間だけ水陸2通りのルートを書くの?
天候などにより、二つのルートを使っていたからだろ? @阿波 宿毛から陸行したり宿毛から水行したりトンデモ過ぎるのが阿波説
>>619 他のルートでも同じだし、水行の方が3倍速いなら待てばいいだろ
>>609
>なんで水行で十日なのに陸行は三倍の一月もかかるの?
水行は、黒潮傍流に乗るため。 @阿波 >>609
>なんで四国のド田舎に五万戸七万戸もいると思えるの?
それらに見合う集落遺跡「群」があるから。 @阿波 >>624 弥生末期の四国の推定人口が3万人なんだけど
阿波の奈良時代の推定人口は6万人ぐらい
>>609
>なんで邪馬台国の前に狗奴国に着いてるのに書いて無いの?
出雲「狗奴国(長国)」は、倭(阿波)だから。 他国じゃないから。 @阿波 >>627
>女王に属してませんが
「卑弥呼」の時代だけ。 @阿波 A国から何百枚も出てくるモノがB国から一枚も出ないとき
B国製であるというのはなかなかエキセントリックだと思う
>>634
「記紀」から地名(出雲)をパクっただけ。 @阿波 >>612 >このエビデンスを示せるかどうかは、このスレの畿内説が嘘つきかどうかを判定する極めて重要な材料になる
なんのエビデンスもなく
「すべて日本製」しかあり得ないだろう
と連呼してるこのスレの九州説が嘘つきかどうかを判定する極めて重要な材料は
もう提示されてるわけね
>>597 鋳型が出ないのは不自然で国産と決めつけるわけにもいかない
清水康二と一緒に「三角縁神獣鏡華北東部系」研究に参加してる九州大学の中西哲也っていう准教授も、三角縁神獣鏡=華北東部系ですかね?
>>637
>「すべて日本製」しかあり得ないだろう
というより、倭(阿波)製だ。 @阿波 >>636 出雲の文字の初見は鰐淵寺が所有する「銅造観世音菩薩立像」の台座に見える「壬辰年(692年)五月出雲国若倭部」の銘文である
>>644
その立像が、壬辰年(692年)五月につくられただけのこと。 出雲が壬辰年(692年)五月にあったわけではない! @阿波 @阿波の相手をしてる人達は自分も荒らしだと言う現実を受け止めて下さい。
@阿波さんは、ただの気狂いです、相手にしたいけません。
>>647
>@阿波さんは、ただの気狂いです
論破して叩きのめせないからといって、気狂い扱いかよww 情けないんじゃないのか? @阿波 徳島県にはなにもないから踊るか妄想するしかないんだよ
三角縁が作られた当時は中国産の原料しかない時代の銅鏡だから、いくら成分を調べてもいつ頃の中国製品を溶かして作ったのか?
ぐらいしかわからない
>>648 ここで煽らないと誰にもかまって貰えないの
畿内が邪馬台国なのだとすると、それは諸国連合の象徴的拠点を建設するという方式が既に事例として存在しており、鉄交易と鏡祭祀を条件として成立したものとしか思えない
その先例として思いつくのが伊勢遺跡でこれは銅鐸での結びつき
>>648 皆さんに叩かれているようですが私はあなたを応援してますよ
邪馬台国は安房!
>>595 >邪馬台国は邪心のある女王
邪心のある馬じゃないのか
>馬に投じた国
どういう意味?
>>655 馬=軍事力を指す
投馬国はそんな女王国に投じた国
「邪馬台国は徳島」説に熱視線、歴史系ユーチューバーら紹介
http://2chb.net/r/newsplus/1703515198/ 剣山にユダヤの秘宝が眠る伝説も 「こんなに面白い話はない」
邪馬台国、ヤマト王権 実は徳島に
http://2chb.net/r/newsplus/1664201897/ 「通説に不都合な事実」
「畿内説に都合が悪いからだ」
>>658 >>659 随分古いスレですな、なんでそんな古いスレのURL持ってるの?
>「坐」の入った神社は勧請された神社
「坐」の付く奈良の神社は、本国倭(阿波)から」勧請された神社。 当然、本国倭(阿波)の神社に「坐」の付く神社は1つも無い。
本国倭(阿波)では、「倭大國魂神社」
本国倭(阿波)から大和に勧請された「大和坐大国魂神社」 @阿波
奈良 継体天皇の下で九州の豪族・磐井と戦った軍事氏族・物部氏の墓か
http://2chb.net/r/newsplus/1741530068/ 儀式の痕跡も 天理市の東乗鞍古墳を天理大が調査
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
>>597 >1つの鋳型で何枚も生産する「同笵(どうはん)技法」が中心。
鋳型は土や粘土とかで作られてるのではないか?。1回使ったら壊れてしまう。
溶けた金属は冷える時に縮むから、鋳型の形より小さくなる。
鋳型を石や金属で作ったら、どうなるんだろう?
ある民族を滅ぼそうとする時、まず、その民族の歴史を抹消することから始まる中国。日本も用心しよう
同氾鏡は多数見つかっているので、その鋳型は石などで作って壊れるまで何度か使用したのだろう
>>668
石で鋳型を作れるのも、倭人(阿波勢力)だけ。 吉野ケ里遺跡の蛇紋岩製銅矛・銅剣の両面鋳型も倭人(阿波勢力)。 @阿波 >>668 それだと鋳型が残ってるはず
てか銅鐸の土の鋳型は残ってる
>>672
「阿波」以外にないだろ? 他に誰が作れるんだ? @阿波 >>674 基本インチキの阿波が何を言っても信用されない、そう言う事。
>>675
まぁ、お前には無理だな。 凝り固まっている。 @阿波 >>676 お前は日本の害悪でしか無いのでさっさと逝ってくれ
東乗鞍古墳や今城塚古墳や植山古墳などのピンク石は、徳島県の石に選定されている「紅簾片岩」だろう。
『日本地質学会が「県の石」選定』
徳島県は岩石が「青色片岩」 鉱物が「紅蓮石」 化石が「三角貝」
その「紅蓮石」は、勾玉製作に必要不可欠な石。
「伊加々志神社」の境内にある崇神天皇を祀っている「王子宮」?に使われている。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 「青色片岩」が、阿波の青石
「紅蓮石」 が、阿波の紅石
「辰砂」が、阿波の水銀朱 @阿波
「大王のひつぎ」に一言
瀬戸内海沿岸や奈良盆地を含む畿内地域のいくつかの古墳や遺跡で、阿蘇ピンク石ではない阿蘇溶結凝灰岩でつくられた石棺が見つかっていることです。八幡茶臼山古墳(京都府八幡市)や唐櫃山古墳(大阪府藤井寺市)、前出の長持山古墳(大阪府藤井寺市)からは、阿蘇ピンク石の家形石棺よりも古い形式とされる舟形石棺が出土しています。長持山古墳の阿蘇ピンク石ではない方の石棺などは、五世紀後半以後畿内を中心に盛行する刳抜式家形石棺の最も古い形とされていましたが、その石材が阿蘇溶結凝灰岩であることが判明しているのです。
①東に海がある
→東に周防灘伊予灘がある
②南に狗奴国
→南に熊本平野がある
③北は伊都国に治す一大率が監察
→北に一大率ヒナモリ体制の国々がある
さて、女王国はどこか?
>>673 三角縁神獣鏡を必死に量産したのはほぼ間違いないので、多くは壊れて(壊れるまで製造されて)破棄された可能性もある
またその工房が未発掘なだけかも知れない
>>681
九州には「女王之所都」遺跡が無く、在るのは「阿波」だけだからなぁ。 @阿波 >>682 勿論その可能性もあるけど見つからないのも不自然でまだどちらとも断定できない
>>683
長持山古墳や東乗鞍古墳や今城塚古墳や植山古墳などのピンク石は、徳島県の石に選定されている「紅簾片岩」だろう。
『日本地質学会が「県の石」選定』
徳島県は岩石が「青色片岩」 鉱物が「紅蓮石」 化石が「三角貝」
その「紅蓮石」は、勾玉製作に必要不可欠な石。
「伊加々志神社」の境内にある崇神天皇を祀っている「王子宮」?に使われている。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ >>657 そういうことだね
たぶんに伊都国の連中がそう説明したと俺は考察してる
舶載鏡か仿製鏡かどちらかに絞られたのは進歩だし今後の調査を待ちましょう
三角縁神獣鏡は、九州から東北南部まで広範囲で500面以上出土しているとのこと。
弥生時代(古墳時代?)のアーティファクトが今現在に伝わるなんて奇跡に近いですよね。残ってるのは、ごくごく一部のはず。
とすると5万枚くらいあったのかな三角縁神獣鏡?
大王などの墳墓であれば、方向や規模・墳形などに規格性があって然るべき。
方向も大きさも墳形もバラバラで、なんの規律性も見られない、雑多な有様。
勝手気ままに造られた、ただの倭人(阿波勢力)豪族の墓に過ぎないよ。 @阿波
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
>>689 三角縁神獣鏡は大型古墳からしか出ないから
100倍もなかろう
魏志倭人伝に信憑性なんかないでしょ
たったの数部しかないオマケをソースにして何年争ってんだよ
魏志倭人伝に信憑性がないという人間が邪馬台国論争に参加するのはおかしい
そのような人間が、魏志倭人伝の記載によって現代に国名などの情報が伝わる邪馬台国の存在を肯定すること自体が矛盾だ
>>687 女王連合に隷属している小国の説明よりも
どういう国かは魏使が実際見て判断するだろ
倭国乱が女子の共立で半世紀も収まってるから
邪心のある軍事大国というのは倭人伝の内容とはかけ離れている
魏志倭人伝の記述する「国」には二つのレイヤーがある
一つは日本の歴史学で「クニ」と表記する小国(約500年後の律令制における国郡里制の「郡」や「里」のサイズ)で、「伊都国」や「奴国」や「邪馬台国」などがこれに該当する
もう一つは上記のクニ、小国が集まった連合国で「倭国」がこれに該当する
では「女王国」はクニとしての邪馬台国を指すのか、それとも連合国としての倭国を指すのか
魏志倭人伝には「女王国」の語が具体的に以下の5か所書かれており、一つ一つ考察する
(具体例)
1.「丗有王 皆統屬女王國」⇒代々王がいて皆女王国に属してきた
2.「自女王國以北 其戸數道里可得略載」⇒女王国より北は戸数や道里をおおよそ記載できる
3.「自郡至女王國 萬二千餘里」⇒(帯方)郡から女王国に至るには一万二千里余りある
4.「自女王國以北 特置一大率檢察」⇒女王国より北には特に一大率を置いて検察させる
5.「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種」⇒女王国の東に海を渡って千里余りでまた国があり、皆倭種である
(考察)
1については、クニである伊都国が属しているのが女王国ということなので、この女王国は上位レイヤーの「倭国」ということになるだろう
2については、女王国より北の倭国内のクニについては戸数や道理を記載できるということなので、必然的にこの女王国は単体のクニである「邪馬台国」の意味となる
3については、倭国の北端の構成国は狗邪韓国ないし対馬国でありここまでの距離は帯方郡から七千里(狗邪韓国)ないし八千里(対馬国)なので、必然的に一万二千里のこの女王国は「邪馬台国」の意味となる
4については、女王国より北に一大率を置くということだが、後の文章で一大率は常に倭国内の伊都国にいるとされているので、この女王国は必然的に「邪馬台国」となる
5については、これを「倭国」と解釈することも「邪馬台国」と解釈することも可能であり、陳寿がどちらを意図したかは外形的には判別できない
(続く)
(続き)
以上のように、魏志倭人伝では「国」という語にそもそも二つのレイヤーがあるため、「女王国」も広義の女王国=倭国と狭義の女王国=邪馬台国の両方が使われており、具体的にどちらを指すかは文脈で判断する外ない
こうしたことが起きた理由は、出典によって女王国の語が広義で使われたり狭義で使われたりしたためであろうか(魏志倭人伝は様々な出典からのツギハギ)
弥生時代は農耕によって定住が進んでムラが出来、さらにいくつかのムラをまとめるクニが出来てくる
クニはせいぜい現代の市ぐらいの領域だ
文字も馬もなかったこの時代は、これくらいのサイズのこじんまりした地域的なまとまりが基本
筑紫のような大陸に近い先進地域では、さらにクニが纏まった連合国が形成された
これは筑紫の地方勢力であり、魏志倭人伝の記載からおそらく後漢書の帥升(伊都国王か?)と見られる人物が初代男王としてこの連合国を組成した
この連合国(魏志倭人伝では「倭国」)では男王の時代が70~80年続いたあとで乱が起き、その収拾のために一人の巫女が女王として共立された
これが卑弥呼だ
大陸と密接な交流のあった筑紫の地方勢力の女王が卑弥呼で、これが朝貢した中国王朝は、様々な政治的事情を背景に北部九州の倭国をまるで東夷の大国のような形で史書に記載したに過ぎない
同じ時代、吉備や出雲などにもある程度の地域の纏まりのようなものは出来ていたかも知れないが(ただし、地域勢力研究で名高い門脇禎二によるとこの頃の吉備や出雲は統一的な国としての体は成していなかった)、中国と外交していなかったから中国史書に載っていない
しかしながら卑弥呼のすぐ後くらいの時代の大和に突然現れた地方勢力・ヤマト王権は、その後数百年掛けて全国政権に成長したため、当初(神武東征)からの伝承が後世に古事記・日本書紀として纏められ、人物名や事績などが残ることになった
私の考える弥生末期の等身大の日本列島のイメージはこんな感じだ
どうも弥生末期の卑弥呼の時代について何百年も後のような列島規模の広域国家のイメージを持つアホが考古学界も含めて多過ぎる
>>693
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 わははははは @阿波 >>695 女王卑弥呼が軍事的覇王ではない。
というのは、おそらく正しい。
245年の帯方郡の韓制圧戦の際、
参戦の激、黄憧は奴国王難升米に送られた。
共立王卑弥呼には軍事権が無いように見える。
難升米は派兵しなかったが、
既に渡航貿易は一大率が管理していた。
247年には張政が倭の査察、激の告諭に来るが
張政によるこの時の報告で魏と卑弥呼の外交は終わる。
卑弥呼は三国志では無能な倭王だった。
弥生時代は原の辻-三雲貿易により鉄などの輸入を独占する伊都国の権力が強く、大陸との外交・貿易を排他的に押さえて北部九州(並びに西日本)におけるヘゲモニー的地位にあった(AD107年に後漢に朝貢した「倭面土国王帥升」は伊都国王であろう)
しかし北部九州に鉄器が行きわたって各国が力をつけると伊都国の専制・横暴に対する反発が北部九州各国から沸き上がり、これが魏志倭人伝の書く倭国乱に繋がったのであろう
北部九州各国は大陸から少し離れた筑後にあって外交・貿易に対する力が殆どなかった邪馬台国の巫女・卑弥呼を倭国王として共立し、一旦纏まったのであろう(タイミング1)
しかし卑弥呼の死後はまた伊都国の王統の男王が立ち、これに北部九州諸国は従わず争いが起きて、その収拾のために各国によって卑弥呼の親戚筋の13歳の少女台与が新倭国王に立てられたのであろう(タイミング2)
私はタイミング1ないしタイミング2の段階で、伊都国の王統が安芸⇒吉備⇒大和と東遷(神武東征)して纏向で建てた新しい政権がヤマト王権であると考える
タイミング1であれば2世紀末頃に神武東征し、数十年を経たその子孫が奈良盆地の王の地位を確立(崇神天皇)したであろうし、タイミング2であれば3世紀半ば頃に神武東征し、割と短い期間で奈良盆地の王の地位を確立したということになろう
欠史八代や纒向築造開始時期などを考慮すればタイミング1の可能性が高いと思われる
初期のヤマト王権は北部九州から排除された勢力であるからしばらくは出身地の北部九州との関係が疎遠で吉備・東海・北陸・山陰など四道将軍派遣地域と親密だったが、九州まで出向いてその関係を修復したのが景行天皇であると考える(景行天皇は北部九州の権威的な支配者には好意的で、彼が討伐したのはそれに敵対する勢力)
(続く)
(続き)
外交・貿易を独占した伊都国のヘゲモニーが崩れたことで、西日本各地の有力者が参加できる貿易プラットフォームである博多湾貿易の時代に移行する
これにより鉄など大陸のモノが畿内など西日本各地に広まることになった
北部九州(倭国)は専制的な王(伊都国王)を排除して各国の合意の下で協調的な王(卑弥呼、台与)が治めるようになった
マグナカルタで王権が制限され貴族や都市の市民の地位が上がった13世紀イギリスのようなことが弥生末期の北部九州では早くも起きていたのだろう
このため北部九州では威信財の豪華な副葬も見られなくなる
翻って専制的な伊都国王の系譜を引くヤマト王権の王は畿内ではレアな鉄器を独占し、また権力の象徴として巨大前方後円墳を造ることとなる
こうした北部九州(倭国)と畿内ヤマト王権(後の日本国)の王の支配構造の違いが、松木武彦が「古墳とはなにか」で書くような北部九州と畿内の違いとして表れるのであろう
「多くの鉄器が長のもとに握られ、それをもって長の権威が誇示される畿内の巨大古墳社会のしくみは、朝鮮半島からくる鉄の素材や技術の玄関口となり、そのために早くから潤沢な鉄器が人びとのあいだに行きわたっていた北部九州には、十分に浸透しなかった。九州北部の人びとが、巨大古墳づくりに比較的冷淡な態度をしめしつづけたのは、そういう社会が、すでに弥生時代にできあがっていたからだろう。鉄などを主とする物質の流通やそれによる生産活動を、畿内のように神格化された長たちが宗教的につかさどるのではなく、もっと現実的なリーダーである長たちがとりしきるのが、紀元後から古墳時代にかけての九州北部社会の姿だったと考えられる。」
>旧百余国。漢の時、朝見する者有り。
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
魏志倭人伝には卑弥呼以前の倭国の様子についても記されている
これを中国人が知ったのはいつだろうか
朝貢については記録が残っている
桓帝・霊帝時代(146年 - 189年)の倭国大乱その後の卑弥呼の共立はどうだろうか
私はほぼリアルタイムで情報を得ていたと思う
卑弥呼の宮殿の様子や侍女が千人などのことがらは、実際に宮殿を訪れた際の記録だろう
>>701 私は初代倭国王帥升の都は伊勢遺跡で当時の倭国のテリトリーも卑弥呼の時代とほぼ同じだったと思う
それは北部九州から東北南部の範囲
倭国建国以前は100国ほどにわかれていたがこれが30国ほどになって倭国が成立した
倭国のテリトリーが変更になっていれば、中国の史書はそれを記録したはずだ
>>706 広形銅矛の分布範囲とか、近畿式銅鐸の分布範囲とか、三遠式銅鐸の分布範囲とか、四隅突出型墳丘墓の分布範囲とか、特殊器台の分布範囲とか、有角石器の分布範囲とか、そういう地域性は全部無視?
>>708 多様な地域性があったということだと思う
>>708
細形銅矛が実用品で、古い。 こちらの分布が重要。 @阿波 >>711
災害多発地帯の「阿波」にも関わらず、細形銅剣の発祥地。 @阿波 >>706 帥升の時代はまだ各国に王がいる時代
倭国乱後に女王を共立したことで誕生したのが後漢書の倭国
>>713 また、後漢書は三国志の成立の一世紀半後
三国志を参考にしたと思う
倭国の建国時に淡路島の五斗長垣内遺跡の鉄鍛冶工房が操業を開始している
>>717 この鍛冶工房は卑弥呼が即位したころ操業を停止している
>>716 後漢代の歴史書はいくつかある=記録があった
帥升は三國志には書かれていない
>>719 この意味は倭国の政治中枢の意思が操業にしても、その停止にしても働いていたということ
>>719 >其國本亦以男子為王 住七八十年
計算すれば倭国が建国した時期となる
伊勢遺跡も纏向も淡路島も近畿に含まれていることは同一
>>724
伊勢遺跡も纏向も淡路島も、倭人(阿波勢力) @阿波 >>723 後漢末期は混乱して倭国のことはわかってない
1世紀前後の倭奴国、帥升に関しては
2世紀末に共立された女王の遣使によって
3世紀に中国が認識した倭国連合の一番南であったり、
その倭国の中の王帥升等というように書かれている
>>726 帥升は倭国王と記されている 倭奴国王ではない
>>727 後漢代は各国皆王を称している
「倭國王帥升等」は、
3世紀に中国が認識した倭国連合の中の帥升を筆頭とした王達
>>727 「倭國王帥升等」は倭国王と随員という意味
まあそんなの間違いで
倭国の主帥の升さんたちだったって説もある
後漢書筆者はしごとが雑で有名で勝手な想像でモノ言う人だったから
>>730 その解釈はおかしいと思うけどな
後漢書には魏志に書いてない情報もあるし朝貢の記述は記録があってのものだろう
189年 霊帝崩御、少帝が立つも4ヶ月で董卓により毒殺、最後の献帝が立つ
190年 公孫度「漢の命運が尽きようとしている。今こそ王位を狙おう」
196年 献帝は曹操の庇護を受け許都に移動
204年 公孫度死去、公孫康が立ち帯方郡設置
220年 後漢が魏に禅譲して滅亡
237年 公孫淵が独立して燕王を自称する
238年 年初帯方郡が魏に占拠される、6月難升米が帯方郡に到着、8月公孫氏滅亡、12月難升米が証書を貰う
↑
をふまえて
桓霊の間(146-189年)倭国が政治的に混乱して大倭王が不在になる
190年ごろに卑弥呼が共立されたところまでは後漢の記録にあったのだろう
後漢書倭伝には卑弥呼の共立までが書かれている
その後、後漢王朝はめちゃくちゃになり公孫氏が台頭し東夷各国は後漢とは連絡が取れない状態に陥る
204年の帯方郡設置後には韓倭は郡に属した
卑弥呼の時代は主に帯方郡の公孫氏に朝貢していたのだろうと思われる
卑弥呼時代の後漢(献帝時代)はめちゃくちゃで朝貢してる場合じゃないしな
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>731 >その解釈はおかしいと思うけどな
なぜ理由を言わない
あたま悪いの?
つまり畿内は帯方郡から万二千里を超えた場所にあった東の倭種の国でしたと
中国の記録文献にはちゃんと女王国(邪馬台国)の位置情報が記されています
・女王国の東の海を渡り千里でまた倭種の国がある
・女王国の南には卑弥呼に敵対する狗奴国がある
・女王国の北は伊都国にいる一大率が(対馬海峡を)監視している
女王国の西については一切触れられていない事から、自ずと女王国が倭の西の端に位置していた事がわかりますよね
女王国と言うのは
時代によって範囲が変わるんだよ
だいいち、魏志倭人伝は
資料寄せ集めのパッチワークだと言っておいて
「女王国の範囲は、こうなの!」と決めつけるのは、おかしいよねw
三国志の魏呉蜀だって、5年10年で
それぞれの勢力範囲が次々と変わってたのに
>女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
このときは九州から見て
つまり、卑弥呼時代は九州ってわけですw
簡単ですね、女王国の範囲!
卑弥呼時代は10国の女王連合
>其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
↑残り8国の連中が、俺もワイも私も印綬ほちぃいいいって行ってるw
>壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人
↑女王連合が拡大した壹與時代にプラス20人
これにて30国の女王連合となり
>今使譯所通三十國
↑合ってることになる
卑弥呼時代は10国、壹與時代で30国
完璧でーーーーーーす!w
上陸した末盧国には官がおらず、
不弥国まで東に東に行ってから水行している
ということは日本での認識と一致して
奴国から先に拡がる女王国の西側は異人であるということ
「後漢書倭伝」
狗邪韓国は倭の西北界
女王国より東、海を渡ること千余里にして拘奴国に至る
女王国が狗邪韓国と狗奴国の間に位置していた事がわかりますよね
太平御覧
至耶馬臺國,戶七萬,女王之所都,其置官曰伊支馬,次曰彌馬叔,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,其屬小國有二十一,皆統之女王。之南又有狗奴國,男子為王,其官曰狗石智卑。
七万戸の耶馬臺国には
女王所属の21小国が有り
其の南が狗奴国
あ、その前に
南水行二十日,至於投馬國,戶五萬,置官曰彌彌,副曰彌彌那利。又南水行十日,陸行一月,至耶馬臺國
投馬國と狗奴国の間に耶馬臺國が有る事がわかりますよね?
半島投馬国ですw
半島投馬国は「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑」「循海岸水行」「陸行一月」を全部無視するスーパーインチキ解釈です
地理情報は卑弥呼の時代に最も近いものが最も正確
それが魏志倭人伝
後代の史料は混乱したものが多い
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
>>746 後代の史料の地理行程が混乱したのは
倭人伝から引用しているからであって
陳寿の行程で2文間の段落が欠落してるから。
倭人伝以前の魏略、廣志では
伊都の南に女王国、邪馬台国が有る。
>>749 魏略、廣志は切れ端しか残って無いって何回言ったら分かるの
不弥国→投馬国を「又」で繋いでる太平御覧の文が魏略に近いんだけど
太平御覽と魏志倭人伝との違い。
太平御覧
魏志曰
…(略)又南水行十日陸行一月至耶馬臺國戶七萬女王之所都
其置官曰伊支馬次曰彌馬叔次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
其屬小國有二十一皆統之女王
之南又有狗奴國男子為王其官曰狗石智卑狗者不屬女王也
自帶方至女國萬二千餘里,…
魏志倭人伝
…南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳鞮可七万餘戸
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國 次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里…
野麻他異国
>>750 切れ端でも文章として通るもの
と
陳寿の船無しで水行が始まったり
直列では意味不明な日程に豹変する文章
は、どちらが正しいかが明らか。
そもそも伊都から
南東百里奴国、東百里不彌国
奴国は二万戸だが、百里で横断できるか?
郡使の船は伊都の北西500里だよ?
行程繋がらないだろ?
>>753 中国の知識人は直列式でしか読んで無い
帯方郡起点だの放射式読みだのは九州説の日本人が編み出した曲解
不弥国は海人族の安曇氏や宗像氏の居る所で、船無しで水行が始まる場所じゃない
一度九州まで道里を書いてるのにダブって日数を書く意味など無いし、陸行一月は何処なんだよアホ
>>749 >伊都の南に女王国、邪馬台国が有る。
いや、邪馬嘉国
>>755 たから陳寿を読んてない
魏略、廣志の文章の話をした。
>>754
繋がらないのは、トンデモだから。 繋がるのは「阿波」だけ。 @阿波 >>756 報告書にあった
臺の僻字を同時代の文人が
公開時に壹にするか嘉にするか?
の問題で、
原本の報告書では、版本前の
報告書原本や筆写本を見た可能性がある
後漢書や後世の史書の臺が正しい。
>>749 魏魏略逸文は唐代に引用されたものでしか内容を知ることができない
同時代の史書が散逸していることはもとより陳寿の責任ではない
また後代の史書に混乱が見られるのも陳寿の責任ではない
唐代に三国志は正史とされ広範な歴史家に支持されている
散逸した史書に敬意を払わないわけではないが人々の支持が陳寿の三国志より評価されなかった結果、散逸ということになったと思う
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
>>763 翰苑だが? この成立時は
魏略、廣志は散逸して無い。はず。
版本以前の太平御覧の時でも。
で、
九州伊都国の南が女王。
邪馬台国所属国は21国で七万戸。
その南有り狗奴国。
>>749 魏略に邪馬台国は出てこないし、廣志は三国志に成立したものだ
↑
×廣志は三国志に成立したものだ
○廣志は三国志より後にに成立したものだ
>>766 私の引用した部分には「翰苑」の文字はないよ
翰苑は太宰府天満宮に第30巻(蕃夷部)と叙文の写本のみが残っているものですが、散佚史料の引用部にも誤字脱字がある可能性があり、信憑性に欠けて真偽の判断や解釈が非常に難しい
対句練習用の幼学書という説もあるほど
伊都国から南は脊振山だし、さらにその南からの後漢三国鏡の出土は乏しいので、そこに邪馬台国7万戸を設定することは絶無。
九州最強は奴国2万戸。
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>770 へぇ~、そ~なんだ。スゴイね。
ありがとう。
文章は著者時代背景などの背景を知って
行間を読むのはとても大事。
倭人伝も原本は版本の写真で見る事が多いけど
中国版の謎の句読点や現代語訳の文節改行段落は
恣意的にミスリードしていると思える位デタラメ。
半島投馬国は説では無く
倭人伝は正しく読むだけで解決している
という話なんだよ。
弁辰韓で4〜5万戸なのに倭人が半島に5万戸も居る訳無いだろ
そんで何で狗邪韓国に来たときに何も書いて無いんだよ
阿波説の邪馬台国の前に狗奴国スルーするぐらいアホ説
>>778 それは、正しい。
投馬国五万戸は後の弁辰韓五万戸の流用。
240年の梯儁は韓西岸~対馬海峡の初探検。
金印持った軍船の行軍で地名は一切無い。
だから停泊地名が無く地点間の里程も無い。
この時は南岸を通過しただけで調査は246年以降。
投馬国、邪馬台国は梯儁による仮称国名。
馬韓国、投馬国、邪馬台国、狗奴国は、
隣接する国でその間の里程は無い。
梯儁は行程では無く地理の説明と女王国の詳細を報告した。
それが、南水行~萬二千里までの段落。
報告書からは、魏略廣志の伊都の南が女王や
太平御覧の21小国が女王所属国、が正しい読み。
この仮称は陳寿は報告書の引用で採用したが
その他には無い。
陳寿もだが、張政も基本は女王国を使用。
別の写本では耶馬嘉国も有る。
>>779
>阿波説の邪馬台国の前に狗奴国スルーするぐらいアホ説
倭(阿波)に到着しているのに、スルーもくそもない! アホか! @阿波 >>780 そもそも半島投馬国は魏志倭人伝最初の文「倭人は東南の島々に居る」の両方に矛盾しているので論外
>>779
>阿波説の邪馬台国の前に狗奴国スルーするぐらいアホ説
「卑彌呼・壹與」時代の倭国は、せいぜいや「邪馬臺国(粟国)」+出雲「狗奴国(長国)」+東讃岐+南淡ぐらい。
倭(阿波)に到着しているのに、スルーもくそもない! アホか! @阿波 >>789
出雲「狗奴国(長国)」での話だな。 @阿波 出雲の国(島根県)が出来たのは、「記紀」から「出雲」をパクった奈良時代から。 @阿波
>>791 因幡の白兎は何処から来たのか?
そして阿波に因幡の白兎伝説はあるのか?
>>791 新羅からどうやって土地を引っ張って来るの
>>792
阿南にあるらしいぞ。 知らんけど。 @阿波
>>795 新羅から国を引っ張って徳島になった神話があんのか知障
>>796
>新羅から国を引っ張って
気狂いか? @阿波 >>798
>新羅から国を引っ張って
そんな神話伝承など無い! 気狂いか? @阿波 「不弥国」 福岡県築上郡築城町「十双遺跡」では、
赤色顔料が付着した楽浪土器や東瀬戸内系の土器の出土から、
倭国(阿波)の影響痕跡が色濃く見られる。 @阿波
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html 瀬戸内土器のルーツは遠賀川式土器、築上町と遠賀川は目と鼻の先
>>805
瀬戸内土器のルーツは、「東阿波型土器」 @阿波 >>805
遠賀川式土器も、「阿波」から。 @阿波 >>806 遠賀川式土器の影響で出来たのが阿波式土器
>>808
九州に遠賀川式土器を作り出す素地・基盤がない。 @阿波 徳島県内の弥生中期遺跡で、遠賀川式土器の影響を受けた土器が確認された例をいくつか挙げます:
- **吉野川流域の遺跡**: 吉野川下流域の集落跡や貝塚から、櫛目文様を施した壺形土器が出土。遠賀川式の形状や装飾に似た特徴を持つ。
- **阿波市周辺**: 弥生中期の土器に北部九州系の影響が見られ、貯蔵甕や調理用の鉢が遠賀川式の様式と関連づけられる。
- **上板町の遺跡**: 櫛目文様の土器が出土し、瀬戸内海経由で伝わった遠賀川式の影響が指摘されている。
四国はせいぜい邪馬台国(大和)か於投馬国(出雲)の一部だな
>>780 >投馬国五万戸は後の弁辰韓五万戸
朝鮮投馬国の作り話だと
倭国の朝鮮投馬国が帯方郡の崎離営を攻撃して
太守弓遵を殺したことになる
>>811
弥生時代中期からは、弥生の大洪水で西日本一帯、灌漑稲作が出来なかった。 よって、水田などをいくら言っても、的外れ。 @阿波 考古学に“新風” 土器の数理解析で拡散ルート裏付け 南山大など
南山大、名古屋大、九州大の研究者グループが、西日本に広く分布する弥生時代前期(紀元前500~350年)の遠賀川(おんががわ)式土器の三次元データを大量に解析し、この土器が北部九州から日本海、瀬戸内海の二つのルートで東に拡散していったとの仮説を証明した。南山大の中尾央教授(哲学・進化学)は「農耕文化についても土器と連動し、同じルートで拡散した可能性がある」と話している。
https://mainichi.jp/articles/20250305/k00/00m/040/177000c >>811
弥生時代中期からは、弥生の大洪水で西日本一帯、灌漑稲作が出来なかった。 よって、水田などをいくら言っても、的外れ。 @阿波 「不弥国」 福岡県築上郡築城町「十双遺跡」では、
赤色顔料が付着した楽浪土器や東瀬戸内系の土器の出土から、
倭国(阿波)の影響痕跡が色濃く見られる。 @阿波
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2000a_41.html 関門海峡は回避するが、同じ難所の豊予海峡(速吸瀬戸)は回避しないのが阿保説
>>821
こいつ、何回も同じことを聞くアホ。 @阿波 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
>>824 お前は俺の質問に一度も論理的に答えた事無いだろ
>>813 255.6年の韓制圧戦では
馬韓と辰韓は制圧して官制敷いたんだけど
倭人域の弁韓は制圧出来てない。
海渡って本家じゃ三国志で忙しい魏には
戦争始めるのも無理だけどね。
だけどこれで日本は富国強兵の古墳時代に突入する。
瀬戸内海航路開拓期の大阪湾岸から
纏向遷都のきっかけにもなったかもな。
>>827
>新羅から国を引っ張って
そんな神話伝承など無い! 気狂いか? @阿波 >>829 >倭人域の弁韓
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里 有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓
弁韓は韓
馬韓、辰韓伝の後、弁辰伝になるのだが摘要
國出鐵韓濊倭皆從取之諸巿買皆用鐵如中國用錢又以供給二郡(略
弁辰與辰雜居(略
其瀆盧國與倭接界十二國亦有王
倭人域と接する12国があり
馬韓辰韓は王を廃して魏の官制だが
弁韓には王が有る。
>>832 >弁辰與辰雜居
✕
「弁辰與辰韓雑居」 〇
弁辰(弁韓)は辰韓と雑居する
「亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似」
また、城郭あり 衣服、居所は辰韓と同じ 言語、法俗は相似たり
弁韓は韓、投馬国は倭国の構成国であって
>>780の >投馬国五万戸は後の弁辰韓五万戸
というのは間違い
大王などの墳墓であれば、方向や規模・墳形などに規格性があって然るべき。
方向も大きさも墳形もバラバラで、なんの規律性も見られない、雑多な有様。
勝手気ままに造られた、ただの倭人(阿波勢力)豪族の墓に過ぎない。 @阿波
漢鏡の分布を見てみると、現在の柳川市・筑後市・みやま市・太宰府市あたりは海の底だったと考えられる。
ここだけなぜか不気味なほど空白地帯になっている。
他方、現在の熊本市辺りからは少ないが、漢鏡5期などが出ている。
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
畿内説が内心一番怖いのは、魏志倭人伝の記述や「邪馬台国」の当て字と最も整合する筑後山門説だろう
邪馬台国は伊都国の南にあり、狗奴国の北だと魏志倭人伝は書く
伊都国が筑前怡土であったことは畿内説も認める通説だ
狗奴国がどこか、だが、肥後には隈本(後に熊本)、隈部、隈荘、隈府、託麻、球磨など「クマ」のつく地名が多く、また狗奴国の官の狗古智卑狗は熊本県北部の久々知(菊池の旧名)から久々知彦だと考えられ、狗奴国は肥後にあったと推定される
具体的な有力遺跡として山鹿市の方保田東原遺跡や菊池市のうてな遺跡がある
邪馬台国は筑前の南で肥後の北にあったとすると、邪馬台国は筑後山門(プラス隣接する肥後山門=肥後国菊池郡山門郷)であった可能性が高い
筑前から筑後への当時の移動ルートは御笠川→宝満川→筑後川の水行だったと考えられるが、そうすると山門の手前に妻(上妻・下妻・三潴)すなわち投馬国もある
魏志倭人伝に邪馬台国と狗奴国は互いの王が長年不和で戦争をしたと書かれるが、当時の日本列島では福岡県と熊本県から最も出土する鉄鏃の存在はこれと関係する可能性がある
またそれまで銅矛文化圏であった肥後が、広形銅矛の時代になると分布圏から外れることとも整合する
邪馬台国が筑後だとすれば、卑弥呼が女王として治めた倭国は筑紫の地方勢力ということになる
魏志倭人伝に倭国の東には海を渡った倭種の国々があったと書かれていること(本州・四国に比定される)、倭国の西の記述がないこと(北部九州の西は東シナ海)などとも整合する
帯方郡から邪馬台国まで一万二千里、帯方郡から伊都国まで一万五百里すなわち伊都国から邪馬台国まで千五百里(魏志韓伝・倭人伝の一里換算で凡そ100km)と距離感もぴったりだ
魏志倭人伝の方角、距離、位置関係を素直に読めば、邪馬台国やそれを含む連合国倭国は北部九州に収まることがわかる
かつての考古学界の重鎮で畿内説の急先鋒だった小林行雄ですら、「倭人伝に記された内容には、一字一句の疑いをもいだかないという立場をとれば、邪馬台国の所在地としては、当然、九州説をとるほかはない」(「古墳時代の研究」)と認めている
筑後からは中国鏡がほとんど出てきませんので、100%ないと思います。
>>845 こんなもんは当然で、のちのヤマト政権の成り立ちがどうだったかの方が重要だ
かつては、東大は九州説と言われたが、今や東大には考古学者はいないと聞きます。
が、大津透という教授がいて、この人は大和説をとっています。
東大非常勤講師の車崎も大和説です。
久住武雄は、21世紀からは文献史学だけでも畿内説優勢とツイートしてます。
この点は、私はちょっと良くわかりません。
奴国から下(南)から、中国鏡が出てこないことを加味しているのではないかというのが個人的な意見です。
さすがに、文献史学者が考古学を学んだ結果ではないかと思うのですが
蟹沢古墳の三角縁神獣鏡の銘文のように、私も自身の経歴を述べます。
元は、TBSの番組で中国人学者が邪馬台国九州説をとっていることを知り、この論争に参加しました。
3、4年前です。
トナカイと戦い、「凄い奴がいるな」となりましたが、このスレからはすぐに離れました。
本格的に入り始めたのは、2023年末ぐらい、無論九州説しかあり得ないと思っておりました。
しかし、まあ、暇な時間に考古学者の論文でも読んでみようかと思い読み始め、テンプレの秀逸さに気付きました。
私が正式に、九州説を辞めたのは2024年2月ですね。中立説とか書いてるアホがいるでしょう。それが私です。
最後に、大和説に傾き始めた端緒はそれまで真面目に考えてこなかった投馬国の比定です(宮崎とか大分とかどこでもいいだろうというぐらいの気持ちでした)。
最後の一撃は、三角縁神獣鏡と紀年銘鏡と庄内甕ですね。
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
魏志倭人伝の記述は信頼出来るのか
卑弥呼が実在した前提で良いのか
旧山門郡のみやま市の権現塚古墳周辺は縄文時代からの遺跡のある場所であり海の中では無いな
八女からみやま市は縄文時代から陸地だね
山門の権現塚古墳の位置
於投馬国(出雲)邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(土岐)彌奴國(美濃)
好古都國(加賀)不呼國(福井?)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲?)蘇奴國(佐渡?)呼邑(羽咋?)華奴蘇奴國(金沢?)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山?)躬臣國(高志)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)
狗奴国はおおよそヤマトタケル東征ルートと被る
於投馬国(出雲)邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(多芸?土岐?)彌奴國(美濃)
好古都國(方県?加賀?)不呼國(不破?鳳至?)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲?)蘇奴國(佐渡?)呼邑(羽咋?)華奴蘇奴國(金沢?)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山?)躬臣國(高志)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)
>>851 山門は海の中では無くて残念賞
纒向遺跡は以下のように北部九州(とりわけ王権が強い伊都国)と吉備に由来する顕著な特徴が見られる
またこれらの特徴は何れも弥生時代の奈良盆地には見られない
纒向を作った勢力は在地弥生勢力との連続性が全くなく、北部九州や吉備に由来する外来征服勢力であることが考古学的に明らかだ
なお、奈良盆地で北部九州の特徴を持った纒向が突如出現するのにタイミングを合わせたかのように、北部九州からはこうした特徴がほぼ消える
これは伊都国東遷の間接的な証拠だと考えられる
◆北部九州由来
・強い王権(弥生時代の奈良盆地には王権の痕跡たる王墓がない)
・豪華な副葬品(弥生時代の奈良盆地には副葬品の慣習が殆どない)
・銅鏡の重視(弥生時代の奈良盆地からは銅鏡が出ない)
◆吉備由来
・楯築墳丘墓の発展型である前方後円墳(弥生時代の奈良盆地では方形周溝墓が普及しそもそも弥生墳丘墓自体が少ない)
・特殊器台(弥生時代の奈良盆地にはない)
・孤帯文(弥生時代の奈良盆地にはない)
・桃核祭祀(弥生時代の奈良盆地にはない)
ヤマト王権は第8代孝元天皇までは宮・陵が奈良盆地南部に留まっていたが、第9代開化天皇になって初めて宮・陵が奈良盆地北部に移った
この頃にヤマト王権の領地は奈良盆地全体に広がったということだ
第10代崇神天皇の代に南山城の武埴安彦を破るが、これはヤマト王権が崇神天皇の代に南山城まで領土を広げたということだろう
畿内説は古墳時代に入ったとみられる倭迹迹日百襲姫や崇神天皇あたりを魏志倭人伝の邪馬台国の頃と重ねて考えるが、この頃のヤマト王権の領土はせいぜい奈良盆地+南山城程度だ
考古学的にも最初期の大きな前方後円墳は奈良盆地のいくつかの古墳の他は南山城の椿井大塚山古墳くらいしかなく、文献上の勢力範囲と一致している
四道将軍が派遣された吉備・丹波・北陸・東海はあくまでも対等な親密国・同盟国であり、ヤマト王権の直接の支配領域がそこまで広がっていた訳ではない
ましてやヤマト王権が筑紫に一大率を置いて管理監督していたなどという荒唐無稽な話がある訳がない
考古学的にも、纒向の外来土器は吉備25%、東海20%、河内20%、山陰北陸17%などとなっており、近隣の河内の他は四道将軍派遣範囲がメインで、北部九州のものは殆ど出ておらず纏向ヤマト王権と北部九州の交流の証拠は乏しい(鉄器生産には奴国の影響が見られるが)
スタートしたばかり、すなわち3世紀末頃から4世紀前半頃のヤマト王権は、一言で言えば大和の地方勢力に過ぎなかった
纒向勢力が北部九州に一大率を置いて支配していたなどと言うのは、一部の頭の悪い考古学者の妄想でしかない(考古学者でも、さすがに久住猛雄など現代のまともな人は、畿内が北部九州を支配していたなどと言う古い畿内自生説の妄言を強く否定している)
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がおかしく非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
後漢の遼東太守の公孫康が朝鮮半島南部に帯方郡を設置したのはAD204年
元々朝鮮半島南部に鉄を取りに行っていた北部九州の倭人は、おそらく帯方郡が出来てから間もない時期に帯方郡と接触を持ったろう(魏が帯方郡を接収してから間髪入れず使者を送ったように)
魏志韓伝でも、公孫康は帯方郡を設置して兵を興して韓濊を伐ち、この後、倭と韓は遂に帯方に属した、と書く
帯方郡を設置した後のタイミングで倭は帯方郡に属したということだ
卑弥呼が共立されたのがAD190年頃で当時15歳くらいと想定すると、帯方郡と最初に接触した頃の卑弥呼はおそらく30歳前後
魏志倭人伝は卑弥呼について「年已長大 無夫壻」と書き、多くの日本の本ではこれを「既に高齢だが夫がいない」と訳すが、「長大」とは中国語で子供が成長すること、成人することを意味し、高齢になるという意味ではない
この魏志倭人伝の文章が帯方郡と卑弥呼の北部九州倭国が最初に接触した頃の記録だとすれば、30歳前後の卑弥呼について「とっくに成人しているが夫がいない」という自然な訳で意味がよく通じる
魏志倭人伝には、女王国より以北には一大率を置き諸国を監察(原文は検察だが現代語での意味は監察)させた、これは中国の刺史のようなものだという文章がある
後漢時代の刺史は兵権や行政権を持たず監察権のみを持ったが、それでは権力が弱いので、戦乱の後漢末になると兵権なども持つ州牧という役職が設置され、州刺史から州牧に置き換わる動きが見られた
そして魏晋代には、刺史が兵権も持つ、すなわち後漢時代の牧と変わらない形になった
(続く)
(続き)
監察が仕事であれば、魏代の刺史とは意味が合わず、後漢代の刺史を想定して書いたことになる(中国魏晋南北朝史学会の陳長崎副会長も、刺史を監察官とする記述は魏の時代よりも前の後漢も含む漢代に書かれたとする)
これも後漢代の公孫氏政権下で書かれたとすれば整合する
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、この2国はそれまでの各国の戸数が「有」と確定的に書いたのに対し「可」と曖昧に書き、里数ではなく日数で表記し、かつその日数(≒距離)や戸数や婢千人等の数値が安全保障上の理由で不自然なまでに誇張されていたのだ
(そもそも五万戸や七万戸のクニなど弥生末期・古墳初期の日本列島に存在しない。寺沢薫によると磯城上・磯城下合計で四千人、複数のクニがある奈良盆地全体でも七千戸しかなかったと推定する。松木武彦は弥生時代だけでなく古墳時代でも北部九州が西日本で群を抜いて発展していたと言い、久住猛雄は古墳前期までは福岡が日本一の都会だったとする)
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解し状況を合理的に整理できる
難升米の朝貢先は帯方郡を占拠した魏軍だったわけではなく
前年の公孫淵独立のお祝いの使者としていつものように帯方郡に朝貢しに行っただけでしょう
そこで魏軍に留め置かれて司馬懿に連絡が入り
司馬懿のプロパガンダに理由されることとなった
難升米ら一行は8月の公孫氏滅亡を待って洛陽に連行され
誇大に盛られた倭国の情報が魏朝に報告されて
大月氏朝貢に並ぶ功績として12月に証書が授与された
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼陵 → 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼陵 → 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散!
狗奴国は
南部九州にある国津のクニの一つ
狗(拘)古(右)智卑狗 = 槁根津日子こと珍彦(ウズヒコ)
その人物比定の逆算から
卑彌弓呼 = ヒコホホデミ = イワレヒコこと神武天皇
と俺は考察した
南部九州から北上して北部九州勢力と相攻撃状
曹魏の計らいで、名目上は和議となり
ほどなくして南部九州勢力は東征することになる
ここまでは記紀どおりでーーーすw
於投馬国(出雲)邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(多芸?)彌奴國(美濃)
好古都國(方県?)不呼國(牟義?)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲?)蘇奴國(佐渡?)呼邑(羽咋?)華奴蘇奴國(金沢?)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山?)躬臣國(高志)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)
3世紀九州で経済的に頂点に君臨するのは、
九州最大の外港都市博多を中心とした2万戸の奴国
つまり九州には奴国以上の国は無い
博多の首長層は纏向と葬制、供献土器を共有する政治連合で
九州内とのお付き合いはない
>>867 >監察が仕事であれば、魏代の刺史とは意味が合わず、後漢代の刺史を想定して書いたことになる
それ、間違いと確定済み
>>875 中国の専門家が言ってるんだけどね
日本のどこぞのアホが間違いだと言ってるのかな?
桃崎祐輔福岡大教授の言うように「畿内・瀬戸内連合」などと単純に括れるものだろうか
吉備はヤマト王権成立に深く関与したのは確実だが、その後も吉備そのものは独立を保っていたように見える(むしろ最初期のヤマト王権の方が吉備の子会社のようなものだっただろう)
応神天皇は吉備の御友別(おそらく吉備王的な存在だった)の妹を妻としたが、その御友別の墓とみられる吉備の造山古墳は、私が真の被葬者は応神天皇と考える大阪平野の上石津ミサンザイ古墳とほぼ同時期・同サイズの築造であることから、応神期のヤマト王権と吉備は同格の同盟者だったと考えられる
また古事記に記載された仁徳天皇と吉備の黒比売のエピソードを見ても、吉備はヤマト王権の支配する領域ではなかったように思われる
まるでバーサーカーのように周囲の皇族・有力者を殺しまくった雄略天皇の頃になって、ようやく吉備に難癖をつけて押さえつけた(ただし直接の軍事行動があったかは不明)ような内容の記事が日本書紀に見られ、ここで初めて吉備に対してヤマト王権が政治的に優位に立ったと思われる
しかしながら、5世紀の伽耶で活動した倭人は吉備出身者が主体だったようだが、その伽耶の倭人集団(一時期は伽耶の安羅国を拠点に任那日本府と呼ばれる組織を形成していた)はヤマト王権からは明らかに政治的に独立した動きをしており、欽明天皇の頃に百済主導の金官国復興に協力しない任那日本府を何とかしてくれと百済からヤマト王権がお願いされても、任那日本府はヤマト王権の言うことを全く聞かずに親新羅のスタンスを貫いていた
このあたりを見ても、吉備は雄略期に多少押さえつけられたとは言え、5~6世紀頃まではヤマト王権から半ば独立した存在であった可能性が高いだろう
ヤマト王権が3世紀に西日本を広域で支配していたなどという畿内説は、歴史観のない人間の妄想に過ぎない
AD107年に後漢に朝貢した倭面土国王帥升は伊都国王であり(その根拠として私は白鳥庫吉説を支持)、朝鮮半島の伽耶地域(当時の中心は金官国=狗邪韓国)から対馬海峡を経て北部九州の玄界灘沿岸あたり(当時の中国が「倭」と呼んだ地域)に勢力を持ち、原の辻-三雲貿易を押えて倭国王的な立場にあったろう
魏志倭人伝で倭国乱の前に70~80年続いたとされる男王の時代は帥升から始まった可能性が高い
この伊都国王=倭国男王達が代々専制的な権力を振るったことに北部九州の他の諸国が反発して倭国乱が起き、その収拾のために伊都国王の血筋ではなく、政治的・軍事的・外交的ヘゲモニーを行使する恐れのない若年の巫女(しかし血統は良く知性やカリスマ性高い)を新たな倭国王として共立したと考えられる
この巫女女王(個人名は不明だがヒメミコ=卑弥呼と魏志倭人伝に記載)は山門=邪馬台国に所在したと考えられる
邪馬台国は戸数や距離(日数)が倭人からの伝聞で誇張されて魏志倭人伝に記載されたが、実態は軍事大国でも経済大国でもなく、宗教的権威はありつつも世俗的権力の弱い卑弥呼政権は各国の協調的なバランスの上に成り立っていたのだろう
例えるなら、現代のEU本部が強国・大都市のパリやベルリンではなくベルギーのブリュッセルにあったり、国連事務総長が大国ではなく中堅国や第三国から選出されるようなものだ
卑弥呼は政治的軍事的ヘゲモニーを有していたのではなく、連合国内各国から担ぎ上げられ神輿に乗っていたに過ぎないので、筑後平野から伊都国や奴国を上回る遺跡・遺物が出なくても全く問題ない
むしろ卑弥呼の共立された理由・経緯を考えれば、あまり大きな遺跡は卑弥呼にふさわしくないと言える
北部九州倭国王が広形銅矛を周辺諸国に配っていたのも、専制的な伊都国王時代までで、各国の神輿に乗った卑弥呼の代になればそのような慣習は途絶えたようだ
なお、北部九州倭国で失脚した伊都国王の系統の一部は安芸、吉備を経て政治的・文化的空白地帯であった僻地の奈良盆地東南部に移ってヤマト王権を建てた
伊都国の特徴であった「強い王権」「豪華な副葬品」「銅鏡への拘り」などは協調的なリーダー(卑弥呼、台与)を選んだ北部九州から消え、遠くヤマト王権に引き継がれる
於投馬国(出雲)邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(多芸?)
(多芸の地名の由来は、倭建命が伊吹山から伊勢国へ帰る途中に歩行困難となり、多芸多芸しくなりぬ、と言ったことに因む)
彌奴國(美濃)好古都國(方県?)不呼國(武芸?不破?)姐奴國(信濃)
對蘇國(珠洲?)蘇奴國(佐渡?)呼邑(羽咋?)華奴蘇奴國(金沢?)
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山?)躬臣國(高志)
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)
狗邪韓国は当時の伽耶地域の盟主的地位にあった金官国であり、これは現在の韓国の金海市にあたる
魏志倭人伝の行程記事では、対馬に渡る前に朝鮮半島南岸のかなり東寄りにある狗邪韓国まで行ったと書いてあるが、なぜわざわざここまでいったのかを考える
まず出発点は帯方郡
「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
(郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行する。韓国を歴て、乍南乍東し、その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里なり。)
帯方郡から韓国(馬韓)の領域に行くまでは確かに海岸を水行している
だが、馬韓の領域に入ってから狗邪韓国までも全て海を通ったとは限らない
むしろ韓国西岸を一気に南下し、そのあと韓国南岸を東進したとすると、
「乍南乍東」
すなわち南へ行ったり東へ行ったりを繰り返すような表現に合わないし、何よりも対馬に行くのにわざわざ狗邪韓国まで行く意味が全くない
また韓国の西岸・南岸の沿岸は非常に航行がしにくいとも言われる
私は帯方郡使は馬韓領域に入ったら漢江系の川に入り、現在のソウル市あたりを経由して南に行ったり東に行ったりしながら南東へ進み、途中陸上移動して洛東江系の河川に入ってさらに南下したものと考える
そうすると、まさに金海市すなわち狗邪韓国あたりで対馬海峡側の海に出る
こちらのルートの方が魏志倭人伝の記述を合理的に説明できるし、難所の朝鮮半島沿岸を航行しなくて良い現実的なルートでもあると考える
>>846 筑後の山門からは後漢鏡が出ている
松本清張編『邪馬台国99の謎』(1975年、産報ブックス)「74 北部九州出土の漢鏡は邪馬台国の資料となるか」において森浩一は「山門郡では、後漢の獣帯鏡が三面出土したことを江戸時代の『耽奇漫録』の一つの写本が拓本いりで記録し、注目される」と記している。
.
狗奴国(クノコク)は天竜川以東から房総半島を除く関東一帯に
広がっていた「くののくに」
都は沼津市にある足高尾上遺跡群
その近くにある3世紀中頃の東日本で最大級の墳墓である高尾山古墳が
卑弥弓呼の墳墓である
久努や久能や久野など、当時の「くののくに」という呼称の名残というか
残骸が滋賀あたりから関東一帯にかけて数多く残っている
狗奴国の場合、当初は滋賀あたりまで領土が広がっていたと考えられるが、
神武東征や倭国大乱を経て卑弥呼の時代には天竜川以東にまで領土が
縮小していたものと思われる
また房総半島には考古学的に狗奴国とは別の国があった事が分かっている
狗奴国は4C初め頃に崇神天皇が派遣した四道将軍の一人である
武渟川別(たけぬなかわわけ)によって滅ぼされたと思われる
ちなみに4C後半に仲哀天皇によって置かれた遠江の久努国(くののくに)は
滅ぼされた「くののくに」に呼称が由来していると考えられるが全く別の国である
.
磯城(纏向を含む)が4000人
一方吉野ヶ里だけで5000人
>>886 纏向のどこに七万戸いたのかはもう諦めたのか
じゃあ出雲のどこに五万戸いたんだ?
>>887 投馬国は中国地方+α、邪馬台国は近畿+αですけど
九州説は投馬国も21国も比定できないだろ
>>888 中国地方が投馬国で近畿地方が邪馬台国とかくっそ笑う
そんだけ巨大なら王を共立する必要がサラサラない
んで狗奴国が敵にもならない極小國とか
>>880 何言ってんの?
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
海岸に従って水行し韓国(馬韓)を歴=過ぎる。
少し南からすぐ東して7千里で女王国の北岸狗邪韓國
韓方可四千里は知ってたんだから、
南に四千里ですぐ先で東転して三千里で狗邪国七千里ですが?
倭人船は目視航海なので海岸を見て進み
狗邪韓國から始度一海の渡海です。
247年の張政は循海岸水行と渡海を書き分けています。
>>883 畿内説の邪馬台国の比定は斉一的な畿内第V様式圏=ほぼ後の五畿(畿内)
だから畿内説と呼ばれている
推定人口は経済学者の鬼頭等なので
遺跡単位の人口は推定していない
>>885 日本の中の古代韓国吉野ヶ里遺跡は、
「甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、
吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらい」
ということなので、
首狩り甕棺墓は民族的に2世紀までにはど没落してしまったので
倭人伝の時代は関係ない
つまり畿内説は出来の悪い作り話でしかないのですよと
>>898 1,200人は甕棺の数などから推測した人口なので
何かほかの物で推測しなければならない
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>871 伊都国までは女王国に至っていないので
北部九州で確実に女王国の構成国だと考えられるのは
2万戸の奴国と横のおまけ程度の不弥国
次の奴国の2.5倍の投馬国と3.5倍の邪馬台国が北部九州に比定できるかというと
九州最大の外港都市博多を中心とした福岡平野の2万戸の奴国を
上回る規模の領域の国を見出すことができないし、
また博多と政治連合だと考えられるような交流は九州内にはない
>>895
>畿内説の邪馬台国の比定は斉一的な畿内第V様式圏
畿内第V様式弥生土器に、斉一性は無い! @阿波 >>896 没落しつつあったから卑弥呼に望みを託したわけだ
没落しつつあったから狗奴国如きに喧嘩売られたわけだ
つまり女王国は北部九州だ確定
弥生時代の筑前と豊前は共通する土器や建物が一致する
>>904 首狩り甕棺墓は3世紀前半に没落しつつあったのではなくて
民族的に2世紀までにはど没落してしまった
>>905 豊前は、可能性があったとしても
2万戸の奴国の横のおまけ程度の不弥国
九州最大の外港都市博多を中心とした福岡平野の2万戸の奴国の
2.5倍の投馬国だという考古学的根拠はない
>>907 倭人伝の記述を信じるならば不弥国の東の畿内は倭国とは無関係
三世紀末まで存続していた城野遺跡には畿内による影響を受けた痕跡が存在しませんでした
つまり畿内説は4世紀の戯言
>>908 濊伝のような時代遅れの銅ポコを崇め奉るは恥ずかしいので博多では出ない
>>910 城野遺跡の北九州市あたりは
まだ畿内から博多に及ぶ政治連合から外れた地域
だから2万戸の奴国の横はおまけ程度の不弥国となっている
>>911 鋳型がある
>>913 田舎では時代遅れでもまだ嬉しそうに買うおっさんがいるから
そういう商品は現代でもある
>>909 倭人伝の記述を信じるならば
会稽東冶の東くらい南
>>916 九州は会稽の北でも南でも無いから東で合っている
>>915 時代遅れの広形銅矛は
日本列島出土の半数が対馬で出ている
一大率が検察して恐れはばかっている諸国で崇め奉っている
畿内説は南は東だったというが
じゃあ東はいったいどこなんだ
>>920 倭人伝の南が東という畿内説は知らない
地理的世界観が間違っている
>>915
>広形銅矛は倭国の祭器
細形銅矛は倭(阿波)の武器。 @阿波 会稽の北
>>893 そういう中身のない言い張りはくだらない
反論はちゃんとしようぜ
どこの誰が
「刺史は後漢代は兵権のない監察官、魏代は兵権を持つ行政官」
という日中共通の歴史の常識を否定したの?
そのアホの名前を是非知りたい
>>918
>時代遅れの広形銅矛
時代遅れの広形銅矛は、非実用品。 細形銅矛は、武器としての実用品。 @阿波 >>894 その七千里は基本的に南に四千里、東に三千里だが、一気に四千里南下してから狗邪韓国まで一気に東に三千里進んでも、南に行ったり東に行ったりしながら(=乍南乍東)狗邪韓国に至るまで南に四千里、東に三千里進んでも、計七千里は基本変わらない
>>924 >どこの誰が
「刺史は後漢代は兵権のない監察官、魏代は兵権を持つ行政官」
>という日中共通の歴史の常識を否定したの?
そんな常識、この世界にないけど?
>>929 君か歴史に無知なだけ
Wikipediaにも書いてあるし、YouTubeの「邪馬台国は九州にあった(中国の学者説)」という動画でも6分0秒あたりから説明されている
ここの畿内説信者は畿内説に不利なことは根拠なく否定する
>>930 証拠も無いのに言い張るだけ?
九州説が滅ぶわけだ
私の「AD205年頃から卑弥呼の邪馬台国は帯方郡と交流した」説は畿内説には甚だ都合が悪い
この時期までの奈良盆地からは銅鏡も楽浪土器も貨泉も硯も、およそ大陸と交流した痕跡が微塵も出てこないからだ
そうしたものが奈良盆地から少しでも出始めるのは100年近く下った3世紀終わり頃から
纒向遺跡は以下のように北部九州(とりわけ王権が強い伊都国)と吉備に由来する顕著な特徴が見られる
またこれらの特徴は何れも弥生時代の奈良盆地には見られない
纒向を作った勢力は在地弥生勢力との連続性が全くなく、北部九州や吉備に由来する外来征服勢力であることが考古学的に明らかだ
なお、奈良盆地で北部九州の特徴を持った纒向が突如出現するのにタイミングを合わせたかのように、北部九州からはこうした特徴がほぼ消える
これは伊都国東遷の間接的な証拠だと考えられる
◆北部九州由来
・強い王権(弥生時代の奈良盆地には王権の痕跡たる王墓がない)
・豪華な副葬品(弥生時代の奈良盆地には副葬品の慣習が殆どない)
・銅鏡の重視(弥生時代の奈良盆地からは銅鏡が出ない)
◆吉備由来
・楯築墳丘墓の発展型である前方後円墳(弥生時代の奈良盆地では方形周溝墓が普及しそもそも弥生墳丘墓自体が少ない)
・特殊器台(弥生時代の奈良盆地にはない)
・孤帯文(弥生時代の奈良盆地にはない)
・桃核祭祀(弥生時代の奈良盆地にはない)
そうやって証拠のない事ばかり言い張り続けたから九州説は亡んだ
そうやって根拠のない妄想ばかり言い続けたから畿内自生説は冗談抜きに本当に滅んだ
>>930 ほら
九州説また簡単に論破されちゃった
>>928
まだ出ていないが、それがなにか? 本物の銅剣も出土しているが、石でも細形銅剣を作っている銅剣王国。 @阿波
「加茂宮ノ前遺跡」(銅剣形石製品) 令和2年6月13日 徳島新聞朝刊
本来、表と裏側に溝があったと考えられるが、面が削られたことによって失われかけている。
製作当初は細形ないしは中細形銅剣を模倣していたとみられる。
再加工することによって平形銅剣の形状に作り替えられた痕跡がある。
>>937 頭おかしい?
歴史の常識を知らずに負けたのは、滅亡した畿内自生説をいまだに盲信する君だよ
ほら、このように
九州説に出来るのは証拠のない事ばかり言い張るだけ
現在、高校で使用されている日本史の教科書をいくつか調べてみました。
調べた中では、下記の教科書において、邪馬台国の場所はまだ判明していないが、畿内説が有力になっていることを示唆する記述になっています。
なお、教科書のシェアとしては、3つで75%くらいを占めます。
note.com/duke315/n/nb93fdd3a76c0
国史教科書
大和国家が成立したのは三世紀で、また倭人伝が卑弥呼の没した年を二四七年ごろとしているので、もし倭人伝の記述が正しければ、大和国家と邪馬台国は同じ時期に併存していたことになります。
於投馬国(出雲)邪馬台国(大和)
斯馬國(志摩)巳百支國(伊吹)伊邪國(伊勢)都支國(多芸?)
・多芸の地名の由来は倭建命が伊吹山から伊勢国へ帰る途中に歩行困難となり、
多芸多芸しくなりぬ、と言ったことに因む
彌奴國(美濃)好古都國(方県?)不呼國(武芸?不破?)姐奴國(信濃)←東山道
對蘇國(珠洲?)蘇奴國(佐渡?)呼邑(羽咋?)華奴蘇奴國(金沢?)←北陸の遠いの国々
鬼國(紀伊)為吾國(伊賀)鬼奴國(桑名)邪馬國(高山?)躬臣國(高志)←近めの国々
巴利國(尾張)支惟國(甲斐)烏奴國(魚沼)奴國(伊那)←女王国の境界
狗奴国(久努・久野・久能・毛野・鬼怒)←女王国の南
>>946 “もし倭人伝の記述が正しければ、大和国家と邪馬台国は同じ時期に併存していたことになります。
ということは、邪馬台国は大和国家の勢力が拡大するどこかの時点で統合された一地方政権か、
あるいは邪馬台国が大和国家であったかのいずれかということになります”
神功皇后が山門の田油津姫を討ったタイミングが邪馬台国がヤマト王権に組み込まれた時期だろうな
>>949
倭(阿波)から、8世紀に奈良に遷都して樹立されたのが大和朝廷。 @阿波 過去4回にわたり不合格とされた「令和書籍」の教科書で、
日本を「現存する世界最古の国家」とした記述など100カ所以上を修正して検定を通過した。
同社は多くの欠陥を指摘されたこれまでの申請図書を「文部科学省検定不合格教科書」と銘打ちネットなどで販売してきた。
保守色の強い中学の歴史教科書は、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが執筆した自由社版や、
育鵬社版などがあるが、文科省によると、24年度の需要に対するシェアは両社合わせて約1%にとどまる。
mainichi.jp/articles/20240419/k00/00m/040/385000c
>>951 あほらしい
倭人の住む地域が倭で日本の地形とかわかんねえよ
4世紀に三韓の辰王が半島から奈良に遷都して樹立されたのが大和朝廷。
古墳人は倭人とは異なる渡来人
>>945 三国志の倭人伝の記述には限界があるから
考古学では3世紀古墳により倭王が畿内に居たようだ、
という状況証拠から畿内説が有力となっている。?
倭人伝記載の邪馬台国の卑弥呼が倭国の王である。大和朝廷は九州を統一済だった。
という、倭人伝の読み方が間違いなら
3世紀古墳で倭王が畿内に居たらしいから
邪馬台国は畿内である。
は、論点のすり替えでしかない。
教科書が日本の歴史学者は馬鹿なのか?
と、言っている。 考古学かな?
文献的には、帯方郡から1万5百里の
伊都の南、1万2千里に女王があり
女王を共立した21国七万戸の
仮称邪馬台国の南には狗奴国がある。
女王国は九州の北部で周旋可5千里の小国である。
里程の単位が違っても、
小学生算数の文章問題でしかない。
つまり、投馬国は、半島南岸であり
海峡を渡ると女王国、陸路二千里が女王の都
であるwww
大和朝廷のタリシホコも三国志の倭国は
昔の九州辺りの小国だろ? と言った。
漢の倭王の金印は九州で出てるし、
倭の五王までに平定できていれば
日本の歴史として矛盾は無い。
私にとって真理は貴重である。
私は多数者とともに走って誤るよりは、むしろただ一人でも正しく立っていたい。
ここにのべるような考え方をもつことですでに私は、なかまのいく人かから侮りと軽べつとあざけりをうけてきた。
私は奇妙で、異様で、特異だとみなされている。
しかし真理は真理なのであり、たとえ全世界がそれを拒否し、私に敵対しようとも、それでもなお私は真理に執着するだろう。
この文章は、ワシントン州フェアフィールドのチャールズ・シルヴェスター・ド・フォートが一九三一年に
刊行したパンフレットの序文からとったもので、彼はこのパンフレットで大地が平らなことを証明している。
ほとんどすべての擬似科学者は、おそかれ早かれ同様な感情を表現する。
里数が5、6倍の数字になっている
当時の計測技術が拙いとしても5、6倍に計測ミスするとは考え難い
意図的に数字を盛っている
何らかの意図でA地点からB地点までの距離は盛大に盛っているのに、同じ国土のB地点からC地点までの所要日数は盛らずに実際の数字を採用する動機はなんだ?
また細長い列島の移動に水行が有効なのに一ヶ月も徒歩で移動する理由も必要だろうね
その動機や理由を明確にできないなら日数も盛られていると判断するのが通常の知性だろう
.
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」
都は倉敷市と岡山市の境界あたりに位置する上東遺跡あたり
当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない
玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている
投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ
今の倉敷市と岡山市のかなりの部分が当時はまだ海の底だったのである
郡使は今の岡山の海岸線にある玉に寄港したのではなく、今ではすっかり内陸に
なってしまった当時の「たまのくに」の中心港だった上東遺跡あたりに
寄港したのである
stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125
.
>>954 三重構造モデルは東大の研究によって否定されました
「古墳時代に東アジアの集団がそれぞれ別々に日本列島に渡来したとするCookeらの三重構造モデルは支持されないことが明らかとなりました。」
s://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10527/
>>953
>倭人の住む地域が倭で日本の地形とかわかんねえよ
全国展開している倭人(阿波勢力)は知り抜いている。 アホか! @阿波 >>961 記録した人が同一人物ならそう言えるけど人も時代も違うんでしょう
>>961 当時は、天は球(半球)、地は方の地球平面説
現代の理屈で見てはいけない
しかも、天子がいる所がこの世の中心
距離と方位で測ったら
正距方位図法みたいに地形が歪むのは当然!
その歪んだ地形を見た
別のヤツが距離を想像したら
間延びした距離になるのは当然でーーーすw
ps://i.imgur.com/HS3j1Of.jpeg
韓が方4千里 ←すでに、これが地形が歪んでるヒントですw
>>967 遠回りの上に若狭湾は崖地で人里や道が未発達
水行の速さは、せいぜい陸行の1.5倍ぐらいだろう
わざわざ遠回りするぐらいなら、真っすぐ歩いたほうが早い
>>960 一月行は中国史の謎の単位だったが
二千里である事が理解できたのは、
おそらく陳寿の倭人伝が最初。
但し倭人伝里に換算するので
この倭人伝里の根拠が必要。
おそらく、月行表記を使用する為には、
外域の地理説明のための概念図が必要。
倭人伝里が千里単位が基準なので、
多分、東夷伝序文に有る
周令九服の制の図を探し出して、その
方可萬里の5百里が里程の基準で、さらに
その外域には月行で示される座標が有った。
中国史書の謎の月行の用例としては
漢書地理誌の最後の徐聞、合浦。
図面が無いと解らない文章だが、
一月行二千里の陳寿の暴露記述によって
概ねの東南アジア諸国の概念が確認出来る。
ちな、
儋耳、珠崖郡と有無が似ているという意味や東鯷人、夏后などの出典もすぐ上に有り、
倭の初出の文章も近い。陳寿の原典の一。
読んでおくと良い。
>>965 まず里数と日数が別の人の記録であるということ
次に前者が誇張数字なのに対して、後者が正しい数字であること
二重に証明しないといけないね
頑張って、としか言いようがない
>>972 証明はなんとなく
一つ目は里数と日数を混ぜると場所をイメージできないし俺ならそんな書き方しない
二つ目は短里など存在しない
纒向遺跡は以下のように北部九州(とりわけ王権が強い伊都国)と吉備に由来する顕著な特徴が見られる
またこれらの特徴は何れも弥生時代の奈良盆地には見られない
纒向を作った勢力は在地弥生勢力との連続性が全くなく、北部九州や吉備に由来する外来征服勢力であることが考古学的に明らかだ
なお、奈良盆地で北部九州の特徴を持った纒向が突如出現するのにタイミングを合わせたかのように、北部九州からはこうした特徴がほぼ消える
これは伊都国東遷の間接的な証拠だと考えられる
◆北部九州由来
・強い王権(弥生時代の奈良盆地には王権の痕跡たる王墓がない)
・豪華な副葬品(弥生時代の奈良盆地には副葬品の慣習が殆どない)
・銅鏡の重視(弥生時代の奈良盆地からは銅鏡が出ない)
◆吉備由来
・楯築墳丘墓の発展型である前方後円墳(弥生時代の奈良盆地では方形周溝墓が普及しそもそも弥生墳丘墓自体が少ない)
・特殊器台(弥生時代の奈良盆地にはない)
・孤帯文(弥生時代の奈良盆地にはない)
・桃核祭祀(弥生時代の奈良盆地にはない)
纒向調査の進展で畿内自生説は事実上崩壊した
纒向調査を踏まえれば、伊都国・奴国あたりの人間と吉備の人間が初期ヤマト王権に関与したのは確実だ
よって邪馬台国の可能性は、理論的には、
①北部九州や吉備から奈良盆地に入った勢力がヤマト王権(=邪馬台国)成立に関与したとする現最近主流の畿内説、
②魏志倭人伝の邪馬台国は北部九州に留まり伊都国など別の北部九州勢力が吉備経由で奈良盆地に入りヤマト王権を作り、北部九州倭国と畿内ヤマト王権が別々に存在したとする九州説、
の二つに絞られるだろう
(なお、安本美典の邪馬台国=筑前朝倉説を前提とした邪馬台国東遷説などは、纒向に伊都国・奴国の顕著な特徴が見られるとする最近の考古学的知見と合致しない
ただし、彼の指摘する筑前朝倉近辺と奈良盆地の地名の大幅な合致は、例えばニギハヤヒ=物部勢力など神武東征以外のタイミングでの朝倉あたりから奈良盆地への集団的な移動の痕跡とは考え得る)
最近の考古学者は①が増えているが(柳田康雄、寺澤薫、北條芳隆、久住猛雄など)、私は②だと考える
その理由は主に以下の3つ
ⅰ)魏志倭人伝の描く倭国が2世紀初頭あたりから連続して続いていること(その間の大きな移動・遷都のニュアンスは皆無)
ⅱ)魏志倭人伝に描かれた倭人のクニの様子や行程・位置などが日数以外の情報が北部九州によく合うこと(距離を日数で表すのは倭人の特徴なので、記載された日数は倭人からの伝聞ということで説明がつく)
ⅲ)卑弥呼の生きていた弥生時代の奈良盆地には大陸との直接交流の痕跡が全くないこと
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。
物部氏の衰退後から、忌部氏が歴史に登場し始める。 @阿波
魏が公孫氏を滅ぼして接収したばかりの帯方郡に倭から難升米ら一行が朝貢に来た時に、帯方太守劉夏はすぐに難升米らを洛陽に連れて行かせて魏の朝廷は倭王卑弥呼に高い地位を与えた
まだどんな国かよくわからない倭をわざわざ首都まで連れて行き高い地位を与え、その後に悌儁らが倭に行って状況を調べて魏志倭人伝前半の行程部分の調査報告書を書いたとは非常に考えにくい
これでは順序がおかしく非合理的だ
帯方郡は難升米ら一行が来た時には、既に倭がどんな国か分かっていたとしか考えにくい
そうなると、最も考えられるのは、魏志倭人伝行程記事部分の下敷きになった調査報告書を書いたのは公孫氏時代の帯方郡使ということだ
後漢の遼東太守の公孫康が朝鮮半島南部に帯方郡を設置したのはAD204年
元々朝鮮半島南部に鉄を取りに行っていた北部九州の倭人は、おそらく帯方郡が出来てから間もない時期に帯方郡と接触を持ったろう(魏が帯方郡を接収してから間髪入れず使者を送ったように)
魏志韓伝でも、公孫康は帯方郡を設置して兵を興して韓濊を伐ち、この後、倭と韓は遂に帯方に属した、と書く
帯方郡を設置した後のタイミングで倭は帯方郡に属したということだ
卑弥呼が共立されたのがAD190年頃で当時15歳くらいと想定すると、帯方郡と最初に接触した頃の卑弥呼はおそらく30歳前後
魏志倭人伝は卑弥呼について「年已長大 無夫壻」と書き、多くの日本の本ではこれを「既に高齢だが夫がいない」と訳すが、「長大」とは中国語で子供が成長すること、成人することを意味し、高齢になるという意味ではない
この魏志倭人伝の文章が帯方郡と卑弥呼の北部九州倭国が最初に接触した頃の記録だとすれば、30歳前後の卑弥呼について「とっくに成人しているが夫がいない」という自然な訳で意味がよく通じる
魏志倭人伝には、女王国より以北には一大率を置き諸国を監察(原文は検察だが現代語での意味は監察)させた、これは中国の刺史のようなものだという文章がある
後漢時代の刺史は兵権や行政権を持たず監察権のみを持ったが、それでは権力が弱いので、戦乱の後漢末になると兵権なども持つ州牧という役職が設置され、州刺史から州牧に置き換わる動きが見られた
そして魏晋代には、刺史が兵権も持つ、すなわち後漢時代の牧と変わらない形になった
(続く)
(続き)
監察が仕事であれば、魏代の刺史とは意味が合わず、後漢代の刺史を想定して書いたことになる(中国魏晋南北朝史学会の陳長崎副会長も、魏志倭人伝の刺史を監察官とする記述は魏の時代よりも前の後漢も含む漢代に書かれたとする)
これも後漢代の公孫氏政権下で書かれたとすれば整合する
公孫氏が短里を採用していたとすれば、魏志烏丸鮮卑東夷伝の中で韓伝と倭人伝だけが一里=100m未満の短里で記載されていること(これは地図と電卓があれば誰でも簡単に確認できる客観的事実)の合理的説明がつく
卑弥呼は公孫氏時代の帯方郡とも親しく外交し、帯方郡にはその記録文書もあった
だから魏に接収された直後の帯方郡に倭が朝貢に来た時に、すぐにある程度の国力と文化があって信用が出来る国と判断が出来て首都に連れて行くなど厚遇したのだ
そして公孫氏の帯方郡使は伊都国や奴国のある博多湾付近から南に離れた筑後の投馬国と邪馬台国には行かず倭人からの(誇張された)伝聞で調査報告書を書いたから、この2国はそれまでの各国の戸数が「有」と確定的に書いたのに対し「可」と曖昧に書き、里数ではなく日数で表記し、かつその日数(≒距離)や戸数や婢千人等の数値が安全保障上の理由で不自然なまでに誇張されていたのだ
(そもそも五万戸や七万戸のクニなど弥生末期・古墳初期の日本列島に存在しない。寺沢薫によると磯城上・磯城下合計で四千人、複数のクニがある奈良盆地全体でも七千戸しかなかったと推定する。松木武彦は弥生時代だけでなく古墳時代でも北部九州が西日本で群を抜いて発展していたと言い、久住猛雄は古墳前期までは福岡が日本一の都会だったとする)
このように解釈することで、魏志倭人伝を巡る諸々の疑問が一気に氷解し状況を合理的に整理できる
陳寿は晋代の人
その人が刺史のようだと書いてるんだよ
陳寿はいくつもの資料を元に魏志倭人伝を編纂した
彼が使った元資料がいつ書かれたものか、が重要
>>980 ネタ元に書かれてた文章をコピペしてきたんだな
>>981 陳寿は晋代の刺史を知っている
その上で刺史のようだと書いてるんだよ
じゃあ陳寿のイメージした倭は
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
>>985 それに関しては魏略や後漢書には別の事が書いてあるんだが
>>986 陳寿がイメージする一大率は晋代の刺史だよ
短里なるモノは存在しない
逆に倭人側が長里に合わせようと歴史修正してる
例えば、本来は不彌国は宇美のことだが
防府市に歴史修正してる
不彌国の官トップである多模
だから玉祖神社もそこに建てた
奴国は、まさに女のマタ、穴の戸w
関門海峡付近
有明海が瀬戸内海
そうなると地理的に
太宰府に該当する場所は、阿岐タケリノミヤとなるわけ
たぶん太宰府あたりに、筑紫城とやらがあった元場所だったりしてw
こうやって倭人側で長里に合わせて
整合性を取ろうとしてるのが垣間見える
>>987 後漢書は同じだろw
海を千里渡った先に狗奴国があって(他の国々も)皆倭種だが女王に属さない
とある
魏略逸文は魏略をそっくりそのままコピペしてあるのか
それとも要約されたものが引用されてるのかわからん
>>990 狗奴国は東でしょ?
魏志倭人伝にはそうは書いてないんだが何を間違えてそうなったと考える?
後漢書には海を隔てた東にあるのが拘奴國と書いてある
>>991 ここでは狗奴国の位置は論点では無いよ
女王国 東渡海千余里 復有国皆倭種
というイメージを陳寿がもっていたという話なのだから
>>980 如刺史の文章の出典は、
247年に伊都一大率に駐留した張政の報告書
この時の幽州刺史、毌丘倹は
247年に帯方郡に着任の王キを従えて
高句麗王の首都を落とし東沃沮に追った将軍。
刺史は中央から派遣される将軍で
地域領主の太守などよりは上位にある武将。
刺史は、三国志で活躍する主役だろ?
>>993 俺もそんな事は全然気にしてないんだけど敵国にあたる場所って何処なんだろうと考えてて
エミシかと思ったけど伽耶かも知れないな
方角が全然違うけど敵国と言うより全く統治できない無関係な地域って事で
>>994 かなり具体的に書いてるしおそらくそうだろうな
もしかすると帥升や倭奴国王の時代かも知れんけど
魏略逸文(漢書地理志燕地、唐、願師古注)
倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
倭は帯方東南大海中にあり山島によって国を為す
海を千里渡るとまた国があり皆倭種である
魏志
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
女王国の東に海を千里渡るとまた国があり皆倭種である
後漢書
自女王國東度海千餘里 至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
女王国より東に海を千里渡ると狗奴国に至る
(東に渡海した先の他の国々も)皆倭種といえども女王に属さない
まあどれも倭種が100余国に分かれて住んでる東南大海中の島々のイメージは同じだよね
まず女王国の30国があってそこからさらに海を渡ると女王に属さない倭種の国々がまたありますと
列島に居る倭人が半島の倭人の国を指して狗奴国(伽耶国)
半島投馬国に続いて半島狗奴国説が生まれてしまったか……
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