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邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚


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1◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:43:43.89
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
http://2chb.net/r/history/1637599956/l50

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:47:49.10
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。庄内3式期のSD-2001、庄内3〜布留0式期のSM-1001,SD-1007が建物BとDをそれぞれ破壊し、建物Fが庄内2式期のSX-1001埋没後築造なので建物群の存続期間は庄内2〜3の中に絞り込まれた。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:48:21.57
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:48:52.51
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:49:24.22
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:49:55.73
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。

7◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:50:28.26
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)

8◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:50:59.86
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

9◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:51:31.43
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FAQ43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

10◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:52:02.97
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

11◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:52:35.37
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

12◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:53:07.63
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。

13◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:53:39.23
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)

14◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:54:10.86
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

15◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:54:41.35
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

16◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:55:13.04
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

17◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:55:45.34
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

18◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:56:17.16
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。

19◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:56:48.86
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

20◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:57:20.68
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
 纒向大溝建築材実測図 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。

21◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:57:51.92
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。

22◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:58:22.48
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。

23◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:58:53.93
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。

24◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:59:24.54
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

25◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 20:59:56.61
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)

26◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:00:28.14
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。

27◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:00:59.58
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

28◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:01:31.56
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。

29◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:02:02.87
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

30◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:02:32.57
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

31日本@名無史さん2021/11/29(月) 21:02:58.64
スレ主さん、
もう殆ど誰も見ていないようですから、
テンプレを貼り付けるのを、止めたらどうですか?。

32◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:03:04.20
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

33◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:03:36.46
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

34◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:04:07.53
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。

35◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:04:37.65
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

36◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:05:08.57
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

37◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:05:40.47
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。

 倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

38◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:06:11.58
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

39◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:06:43.19
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

40◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:07:15.39
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

以上述べた楽浪の対外活動に列島における楽浪土器の出土量を対応させ(◆7参照)
 活発期:2世紀末〜239A.D.:久住IA期
 衰退期:塼室墓から遼東系が消え魏へ定期職貢あり:240〜247A.D.:久住IB期
 残存期:魏へ定期職貢途絶から最終朝貢記録まで:248〜266A.D.:久住IIA期
 途絶期:日本列島から楽浪土器消失:267A.D.〜:久住IIB期
の目安が得られる。
 三国鏡の雲紋編年において魏景元四年(263)銘鏡に一致するのが三角縁201番鏡(唐草文帯群、岸本V期)であることとも整合性が良い。

41◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:07:45.26
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

42◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:08:17.23
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

43◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:08:50.53
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

44◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:09:22.15
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

45◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:09:53.91
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)

46◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:10:34.61
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

47◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:11:03.67
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

48◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:11:34.90
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

49◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:12:06.02
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

50◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:12:37.49
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。

51◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:13:09.45
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。

52◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:13:40.55
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)

53◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:14:12.23
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)

54◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:14:44.42
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。

55◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:15:15.58
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。

56◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:15:45.49
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。

57◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:16:17.04
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大ウ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。

58◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:16:48.71
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。

59◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:17:19.33
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。


◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。

60◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:17:48.95
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。

61◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:18:19.90
◆FAQ 78-1
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 また、「今有甲發長安、五日至齊、乙發齊、七日至長安。今乙發已先二日、甲乃發長安。問、幾何日相逢?」の出題では
「術曰、幷五日・七日以爲法。以乙先發二日減七日、餘、以乘甲日數爲實。實如法得一日」と解く。
これを劉徽が註して「『減七日』者、言甲乙倶發。今以發爲始發之端、於本道里則餘分也」とする。
 即ち、長安〜齊の里数は当然等しいが、乙が2日先発しており、甲の出発時には「道里」に猶ほ「餘分」がある。そこで7日から先行した2日を減ずる計算をしている。
 明らかに「道里」が日数表記されている実例である。

 ここでは同じ固定区間が甲にとっての道里五日、乙にとっての道里七日である。甲の出発時に乙は先行した道里二日を七より減じた乙の道里七日のうち五日が未消化な「余分」である。つまり七五三十五の最小公倍数を法(分母)とすれば三十五分の二十五である。従って、改めて甲乙が同時に出発したと考えれば五と七の和十二分の二十五、即ち二日と十二分の一後に甲乙が出会う。
 この計算には里数が一切登場せず、日数のみで道里を計算していることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
(本項 続く)

62◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:18:50.64
◆FAQ 78-2

(承前)
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。

63◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:19:21.71
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。

64◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:19:51.64
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。

65◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:20:23.18
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君d高官」「保子d孫」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君d高官至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 

66◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:20:54.54
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。

67◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:21:25.73
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
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◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。

68◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:21:56.03
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

69◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:22:28.29
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)


◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。

70◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:23:01.03
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。


◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。

71◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:23:33.65
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。


◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

72◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:24:05.68
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。


◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。

73◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:24:36.79
◆FAQ 99
Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ!
  4世紀後半だ!

A:後代の混入物として除外する通説が正しい。
 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。
 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。
 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。
 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚


◆FAQ 100
Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ!

A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。
 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。
  封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家)
 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有栫B崩而葬焉。
  至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋)
 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四)
✳︎茅山:会稽山の別称
 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。
 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。
 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。
「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。

「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。
(参考:FAQ40)

74◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:25:08.44
◆FAQ 101
Q:纒向の大型建物Dというのは東西二間しか見つかってないではないか!
  四間x四間に復元して大型大型というのはインチキだ!

A:「本来の建物規模は調査の状況や建築学的な検討から東西も4間であったと」
 と調査機関は公式発表している。

 事実、東西6・2m、南北19・2mはアンバランスに長大である。一般に偶数柱間の総柱建物は居館の系譜と考えられており、このような形態は異例であろう。
 建物Bと建物Cの間隔は建物Cの東西二間に等しく計画的に設計されている。
 建物Dで発見された柱列西端から建物Bまでの間隔は建物Dの東西四間に等しい。
 また建物Dと南柵列との間隔は建物Dの南北一間(束柱をカウントすれば南北二間)である。
 全体が規則的・計画的な配置であることを考慮すれば、総柱建物が正方形を志向する傾向も鑑み、建物CとDの間隔も建物Dの東西二間に等しく復元することは合理的である。つまり建物Dを東西四間、南北四間とした復元は合理的かつ妥当である。
 建物Dを破壊している溝SX-1001、建物Cを破壊している溝SX-1002ともに底の僅かな深さしか残存しておらず、両建物のあった地表面への削平が深かったことが窺知される。

大型建物群配置図 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
同空撮 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
建物B空撮 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
Dより西を望む 邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

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75◆n7jxAxKCBhb6 2021/11/29(月) 21:25:40.42
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし

76日本@名無史さん2021/11/29(月) 21:33:06.48
>>999
>しかも侏儒国、裸国、黒歯国は元記事に倭国なんて書いてないのに勝手に倭人伝に書き加えた

魏の役人たちは、もともと、
「(倭國や女王國だけではなく)倭地での見聞計測の記録」も仕事であり、
侏儒国、裸国、黒歯国の記録は、
その倭地での見聞計測の記録に入っていたので、
それを読んだ陳寿も、侏儒国、裸国、黒歯国の記録を書き加えたもの。

77日本@名無史さん2021/11/29(月) 21:53:41.96
倭人伝
男子無大小 皆黥面文身

78日本@名無史さん2021/11/29(月) 22:52:05.72
初期ヤマト王権誕生の地は九州で良いよ
家系から言って、直接、間接を問わず歴史上自国民を一番殺したのは天皇家だから。九州で良いよ。

79日本@名無史さん2021/11/29(月) 23:03:13.87
1世紀以降の博多辺りの勢力は近畿圏の勢力の分家?

80日本@名無史さん2021/11/29(月) 23:07:52.03
前スレ>>919

倭人伝に侏儒国(小人国)までの里数、裸国、黒歯国が書かれていると
誰でも地理観が疑わしいと思う
つまりこの記述にはそういう効果がある

81日本@名無史さん2021/11/29(月) 23:14:27.42
>>79
3世紀はそうかも

82日本@名無史さん2021/11/30(火) 00:41:23.27
>>79
根拠は

83日本@名無史さん2021/11/30(火) 01:13:22.30
そもそもなんで陸行を挟む必要があるのか?

北九州沿岸からなら畿内でも九州でも
沿岸航行で大体、行けるはずだ
考えられるのは以下あたりだろうか

「有明海へのショートカットとして陸行」
「九州東岸に行くのに難所の関門海峡を避けるための陸行」
「北東九州はすでにヤマト政権の支配下なので避けるため」

84日本@名無史さん2021/11/30(火) 01:26:47.71
>>83
陸行1月だから一つ目二つ目は違う
三つめも北側は女王国配下だから違うかな
陸行1月だから敢えて歩いたとしか思えない

85日本@名無史さん2021/11/30(火) 02:09:44.89
>>84
そこで重要なのが前スレの
「倭人伝は数字を盛ってる論」だろ

17km×14kmに過ぎない壱岐島を
「方三百里=約130km四方」(1里435.6m換算)
と倭人伝は言っちゃってるんだぞ

仮に10倍距離を盛ってるとしたら
陸行1月は実際は陸行2-3日に過ぎない

86日本@名無史さん2021/11/30(火) 02:23:58.41
畿内説は短里説を採用しないと
距離が足りなくなるので
長里説かと思うが、それだと
>85のように数字を盛ってることになるので
各数字の下方修正しないといけなくなり
結局、畿内まで距離が足りなくなる

畿内説はこの点をどう説明するのか?

87日本@名無史さん2021/11/30(火) 03:17:07.51
>>86
答えになってないかも知れんが何処を指してるかわからんけど
倭国までの距離が1万2千里という資料があった
陳寿はその場所を北部九州だと考えて辻褄が合う不弥国まで書いてある資料を引用した
実際陳寿は九州とか地理なんてわかんないだろうけど不弥国の近くだろうと目星をつけたんでしょう

88日本@名無史さん2021/11/30(火) 03:33:28.87
目星をつけたと言うより不弥国までで1万7百里の資料があったから
全部で1万2千里だからこれだと思ったのかもね

89日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:07:24.67
>>85
正解
畿内には到達しない

90日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:22:06.14
九州で決まりそうだな。
倭人伝の全ての数を10分の1として三国期の度量衡を使えば説明が付く。
里数、日数、歩数、
戸数、巫女の数、生口等々

91日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:42:26.63
十分の一にする根拠
1、倭人伝をスンナリ理解できる
2、 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

92日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:46:51.65
弥生後期の人口推計から、戸数も十分の一で良いであろう

93日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:48:03.31
>>80
>倭人伝に侏儒国(小人国)までの里数、裸国、黒歯国が書かれていると
誰でも地理観が疑わしいと思う

史記や山海経や淮南子を知っている魏〜西晋の人々は、疑わしいと思わない人も多い。

>つまりこの記述にはそういう効果がある

ない。
魏の役人たちは、もともと、
「(倭國や女王國だけではなく)倭地での見聞計測の記録」も仕事であり、
侏儒国、裸国、黒歯国の記録は、
その倭地での見聞計測の記録に入っていたので、
それを読んだ陳寿も、侏儒国、裸国、黒歯国の記録を書き加えたもの。

94日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:58:42.98
追記
 >或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

四里としよう。四方四里は4かける4で16  ここでは方4里は四分の一となる
すなわち、一定の法則に従えば謎は解ける。それが十分の一

陸行一月で到達する地域はどこにも無いと言った者がいたが、三日なら可能

95日本@名無史さん2021/11/30(火) 05:59:29.93
>>78
>初期ヤマト王権誕生の地は九州で良いよ
家系から言って、直接、間接を問わず歴史上自国民を一番殺したのは天皇家だから。九州で良いよ

大和王権は、九州倭人の委奴の地の天孫族の阿毎氏の、「初期の東征毛人五十五國」で、
在地の毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族を征服して出来た、
別種分家の大倭職の旧小国であるから、それでも、大体いいよ。

96日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:02:21.88
>>79
>1世紀以降の博多辺りの勢力は近畿圏の勢力の分家?

違うな。大和王権の方が、
九州倭人や倭國の、委奴の地の天孫族の阿毎氏の、「初期の東征毛人五十五國」で、
在地の毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族を征服して出来た、
別種分家の大倭職の旧小国である。

97日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:06:12.58
>>87
>倭国までの距離が1万2千里という資料があった

邪馬台国までの距離だよ

98日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:10:32.82
>>81
>3世紀はそうかも

違うな。
大和王権の方が、
九州倭人や倭國の、委奴の地の天孫族の阿毎氏の、「初期の東征毛人五十五國」で、
在地の毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族を征服して出来た、
別種分家の大倭職の旧小国であり、
大和政権が九州倭國政権への参画が始まったのは、
535年頃のヲホド継体の反乱以後であり、
大和政権が「日本國」を称して独立出来たのは、唐の武徳中である。

99日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:19:07.44
>>83
>そもそもなんで陸行を挟む必要があるのか?北九州沿岸からなら畿内でも九州でも
沿岸航行で大体、行けるはずだ考えられるのは以下あたりだろうか
「有明海へのショートカットとして陸行」
「九州東岸に行くのに難所の関門海峡を避けるための陸行」
「北東九州はすでにヤマト政権の支配下なので避けるため」

違うな。
魏使らは、明帝からの詔書や金印や大量の下賜のお宝を卑弥呼に届ける事が第1任務であり、
だから、安全が第1条件であり、
事故の危険性がある渡海や渡河や水行や山越え峠越えは、出来るだけ最小限にして避けて、
出来るだけ、平坦な平野の道を選択するもの、だから。

100日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:25:59.82
>>84
>陸行1月だから一つ目二つ目は違う 三つめも北側は女王国配下だから違うかな
陸行1月だから敢えて歩いたとしか思えない

これもバツだな。
「陸行一月」は、「歴韓國乍南乍東」の陸行日数と、
對海國と一大國のそれぞれの海岸沿い二辺の陸行日数と、
末盧國から、伊都国と不彌國を通って、邪馬壹國女王之所都までの陸行日数の、
合計。

101日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:28:49.55
>>85
>そこで重要なのが前スレの「倭人伝は数字を盛ってる論」だろ
17km×14kmに過ぎない壱岐島を「方三百里=約130km四方」(1里435.6m換算)
と倭人伝は言っちゃってるんだぞ
仮に10倍距離を盛ってるとしたら陸行1月は実際は陸行2-3日に過ぎない

この投稿もバツだな。
「陸行一月」は、「歴韓國乍南乍東」の陸行日数と、
對海國と一大國のそれぞれの海岸沿い二辺の陸行日数と、
末盧國から、伊都国と不彌國を通って、邪馬壹國女王之所都までの陸行日数の、合計。

102日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:37:27.31
>>87
>答えになってないかも知れんが、
何処を指してるかわからんけど倭国までの距離が1万2千里という資料があった
陳寿はその場所を北部九州だと考えて辻褄が合う不弥国まで書いてある資料を引用した
実際陳寿は九州とか地理なんてわかんないだろうけど不弥国の近くだろうと目星をつけたんでしょう

違うな
「何処を指してるかわからんけど」ではなく、
「きちんと計測された萬二千余里になる里数記録」があった。
「辻褄が合う不弥国まで書いてある資料を引用」する必要もなかったし、
「目星をつける」必要もなかった。

103日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:40:55.25
一〇〇歳まで生きた天皇が古代いっぱいいるよ
ギネス記録物の長寿の天皇もいる。
記紀だけどね信用できるかね。。。
記紀まで日本に文字はなかったと言えるかねー
佛教が伝来したのは六世紀、少なくともそのころまでに文字は日本にあった

突然、記紀はないだろうが。。。

104日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:41:29.63
>>88
>目星をつけたと言うより不弥国までで1万7百里の資料があったから
全部で1万2千里だからこれだと思ったのかもね

これも違うな。
邪馬壹國女王之所都までで「合計が萬二千余里になる記録」が、きちんとあった。

105日本@名無史さん2021/11/30(火) 06:46:13.36
>>90
>九州で決まりそうだな。
倭人伝の全ての数を10分の1として三国期の度量衡を使えば説明が付く。
里数、日数、歩数、
戸数、巫女の数、生口等々

それの先駆者が古田さん。短里ね。
古田さんは偉いよ。

106日本@名無史さん2021/11/30(火) 07:33:25.45
>>91
キウスぬか喜びの連投
テンプレが読めていなくて恥をかく

107日本@名無史さん2021/11/30(火) 07:36:17.65
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!

魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に細長〜い「2つの島」であるように思わせる印象操作。
まず「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国1】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国2】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
★邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸

108日本@名無史さん2021/11/30(火) 07:40:04.51
>>107の模式図だyo!【倭人伝の「女王之所都≒東冶の東」プロパガンダ】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓(出雲・吉備=墳丘祭祀)
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜〜〜〜〜▲┃(大和・東海=銅鐸祭祀)
v✖s┃〜〜┏末盧国━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲▲↓国東半島┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓豊後水道┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃♀【奴国1】女王之所都▲▲┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜〜←去女王(之所都)4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲投馬国←←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド…幻)
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「※自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国=30日=1ヶ月)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自帯方郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国2】(幻).〜│★【(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東】(魏晋のプロパガンダ…嘘)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜…本当」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国2】(幻)東南 船行1年…大げさ」

109日本@名無史さん2021/11/30(火) 07:44:14.34
その結末が北東迷k行の安徳台か、、、

陳寿の指示に依り、東南陸行500里の 佐賀川上の 七が瀬を掘れ!

110日本@名無史さん2021/11/30(火) 07:45:09.34
「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ

@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。

こうして陳寿は仕方なく、形状●(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけ刷り替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)

そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w

▶●もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
●もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)

祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。

「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声)

111日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:02:34.61
>>90
>九州で決まりそうだな。
倭人伝の全ての数を10分の1として三国期の度量衡を使えば説明が付く。
里数、日数、歩数、
戸数、巫女の数、生口等>

112日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:05:29.68
>>110
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
>>109
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した忖度(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。

なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいですね( *´艸`)

113日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:06:45.11
>>109

安徳台では3世紀の遺構は見つかっていない

114日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:07:49.35
>>110の訂正
>九州で決まりそうだな。
倭人伝の全ての数を10分の1として三国期の度量衡を使えば説明が付く。
里数、日数、歩数、戸数、巫女の数、生口等々

魏の役人らもほぼ正確に見聞計測をしており、陳寿もほぼ正確に引用しており、
「全ての数を10分の1」にするなんてインチキをする必要がないから、
このオレオレ詐欺師男?もバツね。

115日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:11:58.99
>>112
筑後国一宮・高良大社は、卑弥呼&台与の王宮「居處宮室楼観城柵厳設」の跡地に、阿毎多利思比孤が建てた(昨日の敵は今日の友)高句麗の大使公邸ジャマイカ?

116日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:14:17.26
>>106
キウスインしてる?

117日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:16:59.88
>>91
>十分の一にする根拠
1、倭人伝をスンナリ理解できる

出来ない。

>2、 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。

倭人伝は、誇張されていない。 

>「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)

後代の文書は、周朝里(短里)を知らない筆者もいて、信頼性もなく、根拠にならない。
 
>或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
(「長安城方六十里、 經緯各十五里、十二城門、積九百七十三頃、百二十亭」漢旧儀)

魏の役人らが「同義に使用」したり「混用、錯誤」をすることも、必要がなく、ほぼなi.

118日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:18:12.03
>>108
>>107 
陳寿の蛇足(忖度)…中国大陸沿岸の行程日数で倭国の地理として描写→目的は「その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」

帯方郡【女王国(九州)島】〜【女王国東渡海千里複有国(本州)皆倭種】
↓「南水行二十日」〜〜〜〜〜【又有侏儒国(四国)在其南↖去女王(之所都)四千里】
建業【投馬国島】宮崎・都万
↓「南水行十日」〜
東治┌▲奄美大島┐〜
↓〜│邪馬台国島│↓「南陸行一月」580q(≒19q×30日)
東冶│女王之所都│←「その道里を計るに、まさに会稽東冶(呉越国境&12,000里)の東にあるべし=陳寿の嘘」
↓〜│「狗奴国」│〜〜〜
↓〜│其余傍之国│〜〜〜
↓〜│遠絶・不可│〜〜〜
↓〜└─┐得詳┌┘〜〜〜
儋耳朱崖└─幻┘←「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」

119日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:20:45.08
>>92
>弥生後期の人口推計から、戸数も十分の一で良いであろう

「弥生後期の人口推計」とやらが、そもそも「おおざっぱな推計」であって論拠にならず、
「1戸≒5人」とする事の曲論であり、おそらく「1人〜5人」位であり、
この男もバツ。

120日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:21:57.39
>>118
えっ!?「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート」って倭国内の水行日数じゃないの??

中国の読者に解り易くするために、中国大陸沿岸の水行日数で代替描写して「(女王之所都)その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」って嘘を書いたわけ??

これじゃ投馬国の南(会稽東冶之東=嘘)と北(奴国2回書きで念押し=本当)の2箇所に邪馬台国・女王之所都があることになるよ!

道理で九州内にも本州にも、どこにも比定できないわけだ…むりやり日本地図に当てはめようと、九章算術や十倍報告習慣とか持ち出して引っ込みがつかなくなったヌレ主、奥山氏、狗古智卑狗(菊地彦)の熊本北部説を唱えざるをえなくなった宮崎康平さん、森村伊作が、気の毒すぎる… orz

121日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:22:28.03
>>113
ウソつくな阿保

安徳台遺跡群とも。地域の安徳天皇の伝承にちなむ名称。防御性にすぐれた弥生時代の集落や、甕棺墓のほか中世原田氏の居館もあった。

台地上の弥生時代中期の集落は、100軒もある大集落で、住居址(円形)は直径10メートルもある大型のもの。大きな墓穴に2個ならべて埋葬した王墓とみられる甕棺墓から当時は王しかもたない鉄剣・鉄弋など大形の鉄製武器が副葬されてた。

鏡の出土はなかったが、魏志倭人伝に記載されている奴国の領域であり、奴国王墓の一つとみられている。

2号棺と5号棺の出土遺物としては、土器・土製品、勾玉・管玉・塞杆状製品、貝輪、鉄剣・鉄戈なども。

122日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:28:15.61
>>117
ゴメンね
少し遊びすぎました。
テンプレは訂正すべきだがねー

123日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:29:00.93
>>120
そういうこと
今までみんな馬鹿正直に読んでたから、九章算術だのw十倍報告だのw、延々と行程の水掛け論になっちゃうんだよ

まず「女王之所都は(帯方郡から12,000里の)東冶の東の海の上」という結論するために、
「帯方郡→不弥国ルート(里数表記)」の後に、さらに「帯方郡→東冶ルート」を「投馬国→邪馬台国ルート(日数表記)」として木に竹を接ぎ、中国大陸沿岸部の水行日数を付け足したんだよ(中国の読者向け)
>>118
帯方郡(不弥国)
↓「南水行二十日」
建業(投馬国島=宮崎県都万)
↓「南水行十日」
東治(邪馬台国島≧奄美大島)
↓「南陸行一月」=580q(1日19q)
東冶(女王之所都)=12,000里 ←陳寿の言いたいこと「計其道里 當在会稽東冶之東」

倭国は「山島を以って国邑をなす」列島(複数の島々)だから、それに合わせて、
まず、帯方郡(不弥国)→建業(投馬国島=宮崎都万)は「陸行」ではなく「水行」、
次に、建業(投馬国島)→東治(邪馬台国島≧奄美大島)も「陸行」ではなく「水行」、
最後に邪馬台国島(東治→東冶580q)の上は「陸行一月」、という描写にしたんだよ

奴国が2回書きしてあるから奴国・安徳台でも、祇園山がある高良大社でも、どちらでもいいが、陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国(嘘)」を「南→東」に90度捻じ曲げた大和出ないことは確かw

124日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:40:07.28
>>94
>追記>或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

全く同義ではないから、バツ。
「方四◯◯里」は、一辺が四◯◯里の方形、という意味。
「四方◯◯里」は、「四方向(各)〇〇里」か?、「四つの方〇〇里」の意味。

>四里としよう。四方四里は4かける4で16  ここでは方4里は四分の一となる
すなわち、一定の法則に従えば謎は解ける。それが十分の一

史料事実は「方可四百餘里」であるから全く、論理になっておらず、バツ。

>陸行一月で到達する地域はどこにも無いと言った者がいたが、三日なら可

「陸行一月で到達する地域はどこにも無い」と言った男が、そもそもバツ。

125日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:40:44.13
>>123
>>112
陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」さえ見抜いて切り落とせれば、九州で決まりだねw

蛇足を「南⤴東」に90度捻じ曲げた畿内説が、似非学問の箸墓オレオレ詐欺に過ぎないことがよく判った!

126日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:42:28.35
>>121

弥生時代中期の住居址と甕棺墓、中世原田氏の居館は3世紀の遺構ではない

127日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:43:29.77
>>125
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

128日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:45:34.56
>>97
>>倭国までの距離が1万2千里という資料があった

>邪馬台国までの距離だ

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この男がバツであり、
陳寿が「自郡至女王國萬二千餘里」と書いたのであり、
魏の役人らの行程記載では、
郡から「不彌國や邪馬壹國女王之所都」までが、合計萬二千余里になる記載であった。

129日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:53:20.85
>>125
陳寿の嘘「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート」を見抜けずに、各国間の里数をそのままチマチマ合計し、合わなくなると「十倍報告で南陸行三日だw」とかメチャクチャやってたから、筑紫平野(正解)を素通りしてしまっていたのw

130日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:54:03.78
>>109
>陳寿の指示に依り、東南陸行500里の 佐賀川上の 七が瀬を掘れ!

魏使らの「安全の原則」通りに、水行や山越えは最小限にして、
陳寿の記載に依り、東南に出発して(海岸沿い)陸行500里で「皆臨津搜露」が出来る、
前原〜糸島水道付近を掘れ!

131日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:58:07.87
伊作の残滴現るw

132日本@名無史さん2021/11/30(火) 08:58:39.19
>>122
キウス?あんたは韓伝の四方四千里をどう説明するのだ。

133日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:09:25.51
>>130
>陳寿の記載に依り、東南に出発して(海岸沿い)陸行500里で「皆臨津搜露」が出来る

出発の時だけは陳寿の指令に従ったフリするが、
見送りの姿が見えなくなると、コソリ北東へ曲がるズルコクのドロン雲隠れ術、、

134日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:10:34.43
>>126
ヨコ
それで良いでしょう
しかし、弥生中期で柱穴の直径は深さとも1メートルは注目に値する。
纏向は30センチ程度

135日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:12:52.34
>>132
短里で良いと思います。
万二千里は直線距離と思います。

136日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:15:50.74
>>112
ファイナルアンサー出ちゃったw

137日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:18:12.13
>>135
万二千里は直線距離は無い、計測できるのか
キウス?どこの大学出だよ

138日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:18:32.04
>>111
キウス、脳はアウト

139日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:19:58.59
>>137
希薄って漢字の読めない大卒がいるわけない
解ってやれよ

140日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:21:54.62
>>107
>>123
帯方郡から女王之所都まで12,000里って、
もしかしたら、陳寿は短里で真実(筑紫平野)を、長里で嘘(会稽東冶之東)を、書き分けたのかもしれないな
だとすると、陳寿は天才的だな!

141日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:23:16.14
>>134

弥生中期に盛行した甕棺造墓集団は宗像にも拡大することなくど没落した
全羅南道では6世紀まで存続する

142日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:25:48.88
>>140
それ、何気に凄い発見じゃね?
嘘がバレタ時の言い逃れもできるし

143日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:28:48.39
>>112

赤黒山(祇園山)古墳と同時期の大型前方後円墳は、
三雲瑞山78m(糸島)、久里双水95m(唐津)、豊前石塚山134m(葺石)、生目1号墳135m(箸墓の1/2相似形)

144日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:29:31.96
>>137
計測可能。
水行30日陸行一月で行ける範囲を想定し、郡から直線距離を測れば良いと思う。
あと、学歴なんかどうでも良いが、一応、寺澤氏の出身大学より偏差値が15高い東京の大学

145日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:35:03.17
>>142
会稽、、は魏の使いが見聞、報告したのでは無い。鎮守の世界感からきている。

146日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:36:55.56
>>140
>>85
倭人伝は十倍距離盛っている畿内説、じゃなくて、短里(真実)と長里(嘘)の混合描写説
スゴイ新説、お見事!阿波が今頃泡噴いてるだろうw

147日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:38:06.21
>>145
鎮守の世界感って何?

148日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:38:40.94

149日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:43:34.65
>>134
キウス夢中だな

150日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:47:43.18
>>147
中華思想 世界の中心は中国
東がずっと海ならその先に何があるかわからない。現実的にはアメリカ大陸かな?
だから、周りに中国の属国があると言う思想。

151日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:48:02.96
>>143
畿内説の印象工作乙
祇園山古墳は明らかに前方後円墳「塚」より古い形状の「冢」だよ

152日本@名無史さん2021/11/30(火) 09:57:20.64
>>151
>祇園山古墳は明らかに前方後円墳「塚」より古い形状の「冢」だよ

祇園山古墳は明らかに前方後円墳「塚」より新しく、地元の古い集団墓を均して、その上に作られた「方墳」だろ

153日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:00:16.50
>>151

これらは学者の推定築造年代
赤黒山(祇園山)集団墓地の年代を古いと言い張っているのは反日有害鮮人
階段状方墳は高句麗、朝鮮半島西部の墳形

154日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:04:01.63
階段状方墳は、蘇我氏の特徴を表すもの

155日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:04:01.81
>>144
>一応、寺澤氏の出身大学より偏差値が15高い東京の大学

それで「希薄」って感じが読めないわけないぜ
10倍盛ってるだろ

156日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:06:39.59
>>154

それは6世紀

157日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:12:05.70
>>155
キウスの出身校が寺沢より15高いって確実に嘘ですおー

158日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:25:48.35
>>149
別に九州説では無いし、是々非々です

159日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:26:36.38
>>157
関学自体低いよ

160日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:42:13.66
>>140
慧眼!

161日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:52:00.43
>>157
関学自体低いよ

162日本@名無史さん2021/11/30(火) 10:52:44.20
>>155
慶応か早稲田じゃねーの

163日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:07:48.59
>>158
>別に九州説では無いし、是々非々です

あんたはキウスだからキウスー説だよ
バレてる

164日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:09:47.84
>>162
どこでもいいよ。学歴なんか関係ない

165日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:28:54.26
>>152
>祇園山古墳は明らかに前方後円墳「塚」より新しく、
地元の古い集団墓を均して、その上に作られた「方墳」だろ

「卑弥呼の冢≠前方後円墳」であり、
前方後円墳は、
266年の壹與の遣使が西晋武帝らに教わった「天円地方」墓の後だから、
時系列的に、3世紀後半半ば過ぎ頃から、という事になる。

166日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:39:05.18
>>161
関学が考古学を仕切ってるてか、ダメだこりゃ

167日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:40:08.37
間違えた
関学が畿内説を仕切っているってか、ダメだこりゃ

168日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:41:14.62
>>164
>どこでもいいよ。学歴なんか関係ない

そうだね問題は学力だから
「希薄」って漢字が読めないようじゃ確実に中卒未満の学力だからな

169日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:43:45.68
>>105
「短里説」と「長里だけど盛ってる説」とは
どちらも数字上の辻褄は合う

しかし以下のように短里説だと問題が生じるが
長里盛ってる説はうまく説明できる

「短里説はなぜ倭人伝で短里を使ってるのか説明できない」
「盛ってる説は司馬懿の功績を誇張するためと説明できる」

「短里説では『倭人伝は戸数の数字を盛ってるけど、
距離は盛らない』とする矛盾が起きる」
「盛ってる説は両方盛ってるだけで矛盾しない」

「倭人伝内の各里数に一律短里を適用すると
対馬が小さくなりすぎたりと矛盾が起きる」
「盛ってる説だと、どの程度盛るかは
恣意的にしていいので矛盾が起きない」

170日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:46:16.17
>>169
それを解決するのが長短混合記述説!
>>140

171日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:48:16.37
>>170
混合説もなぜ混合するのかを説明しないといかんでしょ

172日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:54:41.07
>>171
「帯方郡から女王之所都まで12,000里」ということを利用して、陳寿は以下のように書き分けたと思われる
>>123
短里12,000里で真実(帯方郡→筑紫平野)
長里12,000里で嘘(帯方郡→会稽東冶…中国大陸沿岸の行程)

173日本@名無史さん2021/11/30(火) 11:56:51.47
>>169
>「短里説」と「長里だけど盛ってる説」とは
どちらも数字上の辻褄は合う・・・

魏の役人らが記録し、陳寿が採用したのは、周朝里(周髀算経里)であるから、
短里であり、
長里説は、バツ。

174日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:01:58.09
>>172
↓なぜそんな嘘を書いたかは、これで良いんジャマイカ?
>>107

175日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:03:09.14
短里は朝鮮語が必修科目の朝鮮人定時制高校の教師が作った
反日本を売るための商品

176日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:04:34.31
誇張する倍率は色々あるみたいだが
仮に比較的多い7倍の誇張を一律してるとすると
九州についてから不弥国まで
東南に37km、東に7kmしか移動していないことになる

上陸地点を唐津市あたりとすると
九州東岸に行くのは無理で、
ちょうど吉野ヶ里遺跡のあたりにつく

盛ってる説だと有明海沿岸にしかないことになるか

177日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:09:17.71
>>176
壱岐対馬の面積の表記から短里
測量のできる高官は実測表記の地点までというのが妥当

178日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:12:52.23
「九州についてから北東に移動しない」
「九州についてから北九州沿岸を船で移動しない」

この2つのことを説明するのは
「邪馬台国は北東九州を支配していない」とするしかないと思う

北東九州はすでにヤマト政権の支配下だったからではないか?
邪馬台国は九州北西部・中西部を抑えてるだけの
地方政権だったことになるか

179日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:13:27.64
>>172
陳寿の嘘(長里)を「南→東」に90捻じ曲げたのが、箸墓オレオレ詐欺の畿内説

180日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:22:04.57
>>178
移動できない理由があったのはそうだろうけど
それをヤマト政権といってしまうのはどうかな?
むしろ奴国とかの方が整合性がありそう

どちらにしても方位と実測値は根拠なく動かすべきではないな

181日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:22:55.44
陳寿が嘘を書いてるなら史料価値はない

182日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:26:16.32
日本書記によるとヤマト政権は
神武天皇の頃から筑紫(博多のあたり)を支配していて
九州の熊襲の反乱の時も筑紫は保持していた

「ヤマト政権は常に北東九州を支配してきた」という認識らしい

これと「邪馬台国に行くのに北東九州沿岸を航行しない」は
邪馬台国≠ヤマト政権と考えると整合性が取れる

183日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:27:34.34
>>181
そこで重要なのが
「倭人伝は数字を盛ってる論」なんだろ

「倭人伝は数字が誇張されてる以外は
正確に書こうとしてる」とする論だ

184日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:29:44.38
>>179
東南陸行で北東に行くと90度ねじ曲げたのが九州プルタペーテン

185日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:29:47.17
>>178

不彌國の南もすでにヤマト政権の支配下だったから陸行できなかった
などといろいろ考えなくてはならなくなる

186日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:32:17.03
>>183

論じゃなくて、都合が悪いことだけ陳寿の嘘にしようというホラッチョの聖地が考えた作り話

187日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:32:48.73
>>182
もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、その狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!

倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。

倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、

「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」

188日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:33:03.16
対馬にも前方後円墳はあるが
最古でも4世紀の物だという

畿内説によると前方後円墳は
ヤマト政権の支配下にある証拠だそうだが
そうだとすると3世紀対馬は
ヤマト政権が支配してないことになる

3世紀対馬は西九州邪馬台国の
支配下だったからではないか?

だから3世紀博多をヤマト政権が支配していても
大陸へのアクセスでは西九州邪馬台国に分があった

189日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:38:32.74
www.pref.saga.lg.jp/kiji0031629/index.html
>本古墳は古墳時代前期前半の4世紀に築造されたものと推定される。県内の最古級の古墳の一つである。

www.pref.saga.lg.jp/kiji0031658/index.html
>佐賀平野における最古期の大型前方後円墳である…4世紀後半に築造されたと推定

福岡県内には3世紀前方後円墳があるが
佐賀県内にはないらしい

やはり「3世紀北西九州・対馬には前方後円墳がない
=ヤマト政権の支配下ではない=邪馬台国」ということか

190日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:39:00.31
長里とか短里とか織り交ぜたら注意書きがなきゃ読む人にわかんねえじゃん
自分が書く立場で考えてそんな事するか?

191日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:41:02.52
>>188

そんなにどこにでも大規模前方後円墳は造れないので
来訪者が九州沿岸でもっとも発展している外港の博多でまず那珂八幡を見て、
畿内でもっと大きな箸墓を見ると大勢力だと考える効果がある

192日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:42:06.50
>>181
認識が間違ってるだけで意図的に嘘を書いたとは思ってない
いい加減さもあるだろうけど

193日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:42:09.90
>>190
君、良い質問だ!なぜそうしたかはこちら!
>>107

194日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:42:24.98
>>175
おまえ、ほざくだけじゃん
頭。大丈夫か。

195日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:43:13.79
>>191
博多が外港と考えるのが間違いなのでは?
対馬・壱岐・唐津を抑えるだけで
大陸とのアクセスは独占できるだろう

196日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:43:59.39
>>189

佐賀平野には3世紀の前方後円墳は無い
前方後方墳のほうが先

197日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:44:17.84
>>170
>それを解決するのが長短混合記述説!

魏の役人らも陳寿も、
そんな・・・・アホな記述をする訳がないから、
この大和説男?が、おそらくオレオレ詐欺男。

198日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:44:47.11
「邪馬台国は奴国=博多を抑えていた」という前提が
間違いではないか?

記述通り、奴国は末蘆国=唐津から
南東にあるのではないか?

199日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:46:08.54
>>195

抑えるってどこの勢力が?

200日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:46:14.58
馬鹿の一つ覚え

201日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:46:47.78
>>199
北西九州邪馬台国やろ?

202日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:49:23.56
>>201

根拠は?

203日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:49:24.84
>>172
>「帯方郡から女王之所都まで12,000里」ということを利用して、
陳寿は以下のように書き分けたと思われる
短里12,000里で真実(帯方郡→筑紫平野)
長里12,000里で嘘(帯方郡→会稽東冶…中国大陸沿岸の行程)

東冶なんて、陳寿の魏志倭人伝に存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、
この男がバツであり、
魏の役人らも陳寿も、
そんなアホな書き分け記述をする訳がないから、
この大和説男?が、おそらくオレオレ詐欺男。

204日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:50:54.84
>>194

事実だから

205日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:51:33.01
>>193
訳わからん
三国志が書かれたのは三国時代が終わって西晋になってからなのに何故嘘を書く必要がある?

206日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:52:11.50
>>202
すでに出てるやろ?

「対馬、佐賀県に3世紀の前方後円墳がない」
「3世紀対馬・北西九州はヤマト政権の支配下ではない」

「倭人伝で邪馬台国に行くのに
 北九州沿岸を航行しようとしないし
 北東に陸行もしない」
「北東九州が邪馬台国と敵対する
 ヤマト政権に抑えられてるため」

207日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:54:54.94
>>176
>誇張する倍率は色々あるみたいだが・・・

倭地を実地に見聞計測した魏の役人らも、倭地に来たこともない陳寿も、
「誇張する」必要も義務も全くないから、
この佐賀説男も、バツ人間。

208日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:55:30.96
>>206

いやだから壱岐対馬と唐津と西北九州に共通した考古資料は?

209日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:56:07.79
>>205
西晋時代だからこそ嘘が書けるんじゃんw

>>107
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.ところで倭国の気候風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある儋耳朱崖に似ている。
3.しかし本当の位置も残さなければならない。

210日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:57:27.69
>>209

嘘なら史料価値はない

211日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:58:52.79
会稽東治もそうだしただたんに書き間違えたってのは根拠として弱いよね
それだとなんとでも言えるし何故間違えたか他の理由があった方が良い

212日本@名無史さん2021/11/30(火) 12:59:04.38
>>208
対馬・壱岐・北西九州に
「3世紀前方後円墳がない」が
共通した考古学的証拠では?

むしろ同地域に畿内説を支持する
どういう共通考古学証拠があるのか?

213日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:02:28.76
>>209
既に西晋が統一してるのに何故嘘を書く必要があるのか

214日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:04:20.92
>>178
>「九州についてから北東に移動しない」

明帝の詔書や金印や大量の下賜のお宝を卑弥呼に渡さなければならない魏使らは、
安全が第1条件であるから、水行も山越えも最小限であり、
だから、末盧國出発後は、東南出発後、海岸沿いに移動した。

>「九州についてから北九州沿岸を船で移動しない」
この2つのことを説明するのは「邪馬台国は北東九州を支配していない」とするしかないと思う

なんだ?、この男は、「南→東」などの嘘吐き騙しのオレオレ詐欺の大和説者だっのか。

>北東九州はすでにヤマト政権の支配下だったからではないか?
邪馬台国は九州北西部・中西部を抑えてるだけの
地方政権だったことになるか

嘘つき騙しの大和説者では、いくら嘘をついても、世間の人々は信用しないよ。

215日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:05:46.42
>>212

3世紀前方後円墳がないところがなんで一つの国である根拠なのか?
3世紀前半まで壱岐、糸島、福岡市は楽浪土器が出る
糸島は三韓土器は少ないが博多には集中する

216日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:08:09.12
>>181
>陳寿が嘘を書いてるなら史料価値はない

魏の役人らも陳寿も、嘘を書く必要もなく、嘘を書いていないから、
この大和説男?が、オレオレ詐欺の嘘吐きだ。

217日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:13:40.96
陳寿の指示に従って、東南陸行500里の 佐賀川上の 七が瀬を掘れ!

218日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:17:56.51
>>156
>>それは6世紀

あのな、それは畿内の蘇我墓のことだ
渡来初期の九州根拠地の蘇我墓こそ、階段状方墳の祇園山古墳

219日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:19:24.76
意図的に嘘を書いたとは思わないけど無知による間違いはある
不弥国の後に関係ない投馬国邪馬台国の資料をくっつけたのがまさにそれ

220日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:20:41.45
>>218

3百年間どこに隠れ住んでた?

221日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:22:21.92
>>182
>日本書記によるとヤマト政権は
神武天皇の頃から筑紫(博多のあたり)を支配していて

いや、天孫族の阿毎氏の(南九州から委奴の地に来た)五瀬命や神武らは、
委奴の地ではうだつが上がらなかったから、「猶東に行かむ」として、
委奴の地から、東征に出発して行った。

>九州の熊襲の反乱の時も筑紫は保持していた

大和政権の景行も倭建命も、九州の姫氏倭國の配下の将として、
九州内の「衆夷を服属せしめる」戦争に参戦した。

>「ヤマト政権は常に北東九州を支配してきた」という認識らしい

大和が日本国号を承認されたのは唐の武徳中であったから、
それまでは、大和は九州倭國の別種(倭種)分家の旧小国の扶養國であった。

222日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:25:17.51
>>183
>そこで重要なのが「倭人伝は数字を盛ってる論」なんだろ
「倭人伝は数字が誇張されてる以外は正確に書こうとしてる」とする論だ

魏志倭人伝では、「数字」も、ほぼ正確に書かれているから、
この大和説男?も、オレオレ詐欺師だな。

223日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:29:23.81
>>185
>不彌國の南もすでにヤマト政権の支配下だったから陸行できなかった
などといろいろ考えなくてはならなくなる

不彌國の南も邪馬壹國女王之所都だったから、
この男も、オレオレ詐欺師の大和説者だな。

224日本@名無史さん2021/11/30(火) 13:50:58.60
>>211
間違えたのは何処?

225日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:04:19.99
>>220
それは俺も知りたいことだ、、。

226日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:05:18.49
>>224
会稽東治は会稽東冶を書き間違えたと言ってる人が居るでしょ
これは単純に文字を書き間違えたと言ってるんでしょ

227日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:05:43.07
>>191
>そんなにどこにでも大規模前方後円墳は造れないので
来訪者が九州沿岸でもっとも発展している外港の博多でまず那珂八幡を見て、
畿内でもっと大きな箸墓を見ると大勢力だと考える効果がある

来訪者が那珂八幡を見た言っても、那珂八幡は3世紀後半半ば過ぎであるから、
240年台の来訪者が見る事が出来ないから、バツだし、
(畿内なんて存在もしなかった)大和の箸墓は4世紀だから、全く見れる事もなく、
バツです。

228日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:06:36.63
>>215
消去法では?
畿内説と九州説しかないなら
畿内説を否定できれば
自動的に九州説になる

それともあなたは「対馬は
独立国で邪馬台国は
存在しない」と考えてるの?

229日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:10:16.86
>>192
>認識が間違ってるだけで意図的に嘘を書いたとは思ってない
いい加減さもあるだろうけど

卑弥呼の女王之所都まで行っている魏の役人らが、認識を間違える筈もなく、
陳寿も「いい加減に書いた」筈もないかから、
この大和説男?が、オレオレ詐欺師であり、バツ人間。

230日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:12:13.89
>>228
俺は大阪説だ

231日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:23:08.22
>>196
>佐賀平野には3世紀の前方後円墳は無い
前方後方墳のほうが先

前方後方墳の方が前方後円墳よりも古い、という事は構わないが、
前方後円墳は、明らかに壹與が266年に西晋武帝から学んだ「天円地方」思考の後になるから、
3世紀後半半ば過ぎ頃になり、
吉野ケ里の前方後円墳もやはり3世紀後半半ば頃以後になってしまう。

232日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:46:33.03
>>219
>意図的に嘘を書いたとは思わないけど無知による間違いはある
不弥国の後に関係ない投馬国邪馬台国の資料をくっつけたのがまさにそれ

不彌國の次に「南至邪馬壹國女王之所都」になる、という記録をしたのは、
(陳寿ではなく)魏の役人ら。
陳寿は、その記録に従って書いたに過ぎない。

233日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:50:06.74
>>232
おまえは全部繋がってるとものだと思ってるんでしょ
俺は別の資料をくっつけたと思ってるから

234日本@名無史さん2021/11/30(火) 15:57:19.55
>>226
>会稽東治は会稽東冶を書き間違えたと言ってる人が居るでしょ
これは単純に文字を書き間違えたと言ってるんでしょ

魏志倭人伝の「東治」と後漢書の「東冶」に関しては、
宋明清代の校勘でも、学者は誰も「東治」を校勘対象にしておらず、
「東治」で正しい、という判定であり、
だから、それを「東冶」に書き変えた(後代の5世紀の)後漢書は、
「自己解釈に拠る書き変えを実行した半分偽書であった」という事になり、
証拠価値がなく、根拠には出来ない代物。

235日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:00:01.89
>>228

つまり西北九州作り話には何一つ根拠が無い
学者の通説は畿内説

236日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:00:27.57
>>234
俺が言ってるんじゃないから
書き間違いは根拠としては弱いねえと言ってるだけ

237日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:03:51.84
畿内説は
「北東九州は畿内系土器が大きく流入するから畿内の支配下」
「対馬・壱岐は畿内系土器の大きな流入がないけど畿内の支配下」
と矛盾している

畿内説は対馬・壱岐まで畿内の
支配下である根拠を示すべきだ

238日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:12:49.67
>>233
>おまえは全部繋がってるとものだと思ってるんでしょ
俺は別の資料をくっつけたと思ってるから

魏の役人らが、魏帝に「別の報告書」を書いて、複数以上書く筈もなく、
陳寿も、「別の資料」をくっつける事が出来る筈もない。

239日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:19:57.39
>>237

アカデミック畿内説では3世紀は博多湾貿易と呼んで
博多湾沿岸の首長層が畿内を中心としたネットワークに参加しているという相互利益協力体制
支配という語を使っている学者はいない
先述のように考古学的に博多湾沿岸が郡、半島との交流の拠点になっている
唐津を除く西北九州はそのネットワークにはまだ不要であったというだけ
学問を拒絶すれば何一つ根拠がなくても
壱岐対馬が自動的に西北九州勢力の手に入るというのは消去法ではない

240日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:21:19.00
>>235
>つまり西北九州作り話には何一つ根拠が無い
学者の通説は畿内説

つまり、畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の、大和説学者らの作り話には、
何一つ根拠が無く、
国民や世界の学者らの通説は、九州説

241日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:24:35.68
>>237
>畿内説は
>「北東九州は畿内系土器が大きく流入するから畿内の支配下」
>「対馬・壱岐は畿内系土器の大きな流入がないけど畿内の支配下」

それ、畿内説じゃないだろ

242日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:24:39.26
>>237
>畿内説は
「北東九州は畿内系土器が大きく流入するから畿内の支配下」
「対馬・壱岐は畿内系土器の大きな流入がないけど畿内の支配下」
と矛盾している
畿内説は対馬・壱岐まで畿内の支配下である根拠を示すべきだ

成程。

243日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:28:32.77
>>237
>畿内説は対馬・壱岐まで畿内の
>支配下である根拠を示すべきだ

主張してないことの根拠を示す必要はない
まるで低学歴学歴学歴キウスみたいな言い草だぞ
無学と思われたくなければ勉強しろ

244日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:28:32.77
>>237
>畿内説は対馬・壱岐まで畿内の
>支配下である根拠を示すべきだ

主張してないことの根拠を示す必要はない
まるで低学歴学歴学歴キウスみたいな言い草だぞ
無学と思われたくなければ勉強しろ

245日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:31:48.70
>>237
>「北東九州は畿内系土器が大きく流入するから畿内の支配下」

土器が流入しているから畿内が支配下に置かれていると考えるのが普通

江戸時代だって参勤交代は地方から江戸に行ったわけだし、
奈良時代の律令制度の時代は地方から京都へ地方の特産物を届けに都にわざわざ出向いて行った
もちろん、中央から官僚は派遣されてくるけど、そんなもん地方から中央に行く数に比べたらごく少数なのが当たり前

246日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:34:32.96
>>239
>アカデミック畿内説では3世紀は博多湾貿易と呼んで
博多湾沿岸の首長層が畿内を中心としたネットワークに参加しているという相互利益協力体制
支配という語を使っている学者はいない

「畿内を中心としたネットワークに参加している」という文言がバツ。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和などは、
九州倭國の「東征毛人五十五國」で出来た別種倭種の「市を監督する大倭職」の旧小国であり、
ネットワークの中心は北部九州である。

247日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:34:33.08
>>239
>アカデミック畿内説では3世紀は博多湾貿易と呼んで
博多湾沿岸の首長層が畿内を中心としたネットワークに参加しているという相互利益協力体制
支配という語を使っている学者はいない

「畿内を中心としたネットワークに参加している」という文言がバツ。
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和などは、
九州倭國の「東征毛人五十五國」で出来た別種倭種の「市を監督する大倭職」の旧小国であり、
ネットワークの中心は北部九州である。

248日本@名無史さん2021/11/30(火) 16:40:32.67
>>245

博多の供献土器は搬入土器ではなくて、在地の制作者による畿内の土器の模倣制作
交流の中心の博多に畿内と同じ墳形の大規模な墓を築造している

249日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:00:32.01
日用品の土器になんの意味があるのかねー

250日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:04:03.94
>>233
>おまえは全部繋がってるとものだと思ってるんでしょ
>俺は別の資料をくっつけたと思ってるから

別の史料をくっつけようが、貼り付けようが、出来上がって、全文通して読んだときに何ら矛盾ない書こそ一流である。
だから陳寿の三国志は、千数百年の時空を超えて受け継がれてきたのだ。
三行の文でさえ矛盾だらけのオメのレスなんざ、三日でオワコン、廃棄処分だよ。

251日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:10:42.34
発見された纏向の外来土器は土器全体の1割だが
他の地域は1割もないんじゃね

252日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:15:56.86
>>250
だったらなんで里数が日数に変わってるんだ?
不弥国の続きがあるならそのまま里数で書けよ
判り難い

253日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:17:44.54
銅鐸は北海道でも見つかっているが、
倭国?大和王権?が北海道を支配してたのかねー

254日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:22:19.78
>>251
それは、その地域の勝手
流通、需要と供給

255日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:23:19.76
不弥国までが10700里
女王国までが12000里だからこの辺だろうと思ったんだろ
でもそれなら水行と陸行で陳寿もおかしいと気付けよな
そのまま書き写してやんの

256日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:26:26.46
畿内説の人は経済活動や文化の伝信と政治的活動をごっちゃごちゃにする癖がある。

257日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:26:32.82
>>253
畿内説は自分の考えに都合のいいところだけつぎはぎして作った説だからなw

258日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:26:43.41
>>253

銅鐸が北海道で?何遺跡?

259日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:32:36.11
クリスマスを楽しんだ人は皆キリスト教徒と言っているようなもの。
日曜品の土器なんてしはいの象徴でも無い。
流行した前方後円墳なんて支配の象徴でも無い

260日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:46:06.18
1000人単位の人工がかかる古墳を流行の産物と言う発想が現実と遊離しすぎだ

261日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:46:10.02
>>259

お前と博多湾沿岸の首長層とは当然考えることが違う

262日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:55:52.33
>>251
>発見された纏向の外来土器は土器全体の1割だが
他の地域は1割もないんじゃん

大体、庄内に関しても、
北部九州は3世紀前半から中程の卑弥呼の頃になるが、
大和の庄内は、3世紀末の石塚から3世紀最末〜4世紀のホケノの頃になって、
そもそも、時期が全く違うんだよね。

263日本@名無史さん2021/11/30(火) 17:59:23.50
魏志倭人伝 冒頭
>倭人は帯方東南、大海の中に在り。
>山島に依り国邑を為す。
>旧百余国。漢の時、朝見する者有り。
>今、使訳通ずる所は三十国。
倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。
山島に身を寄せて国家機能のある集落を作っている。
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。
今、交流の可能な国は三十国である。

魏志倭人伝に記載があって邪馬台国と交流がありそうな国
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國
全部で27ヶ国

>租賦を収め、邸閣有り。
>国国は市有りて、有無を交易す。
>大倭をして之を監せしむ。
租税を収め、高床の大倉庫がある。
国々に市があって有無を交易し、
大倭にこれを監督させている。

国々に市があって交易ルートはあったんじゃないか
各国が女王に贈り物をしたとは書いてないが
贈り物をしないのは考えにくい
銅鏡による納税制度により各国の王は溜め込んだはず

264日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:00:06.70
>>249
低学歴の人には分かりにくい意味がある

265日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:01:33.56
>>257
証拠出せてから言ってね

266日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:03:03.35
>>252
>だったらなんで里数が日数に変わってるんだ?
不弥国の続きがあるならそのまま里数で書けよ 判り難い

不彌國の次の「水行二十日」は、不彌國からの側副傍線国の投馬國への所要日数説明であり、
魏使らは通っていないから記録しておらず、倭人からの伝聞情報。
「水行十日陸行一月」の数量説明の文は、
その前の文言の(郡からの目的地である)女王之所都の説明文言になるから、
郡から女王之所都への全所要日数の説明文になる。

267日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:05:00.31
>>253
>銅鐸は北海道でも見つかっているが、・・・

ふーん。情報提供、有難う御座います。

268日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:08:04.09
中央から配布される銅鏡がないと各国の王は米とかを集められないとなると
中央の権力は絶大で邪馬台国は緩やかに各国に影響力を持っていたと思う

邪馬台国の緩やかな統治機構に入れば王はウハウハで
傘下になりたい国が増えて銅鏡のコピーも増えた
あと同盟国の証として前方後円墳は交易の地域拡大に寄与した
あればそこは仲間の国

269日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:09:02.02
>>255
>不弥国までが10700里
女王国までが12000里だからこの辺だろうと思ったんだろ
でもそれなら水行と陸行で陳寿もおかしいと気付けよな そのまま書き写してやんの

違うな。
不彌國や邪馬台国女王之所都までが、「萬二千余里」。
その所要日数説明が「水行十日陸行一月」。
自分や大和説者らの「脳がおかしい」と気付けよ。

270日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:16:47.37
>>268
>中央から配布される銅鏡がないと各国の王は米とかを集められないとなると
中央の権力は絶大で邪馬台国は緩やかに各国に影響力を持っていたと思う
邪馬台国の緩やかな統治機構に入れば王はウハウハで
傘下になりたい国が増えて銅鏡のコピーも増えた
あと同盟国の証として前方後円墳は交易の地域拡大に寄与した
あればそこは仲間の国

この男が、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったから、
意味不明な文な駄文。

271日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:19:17.23
理由なく結論言い張るだけの九州説って
知能だめ過ぎでしょう

272日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:22:12.56
各国の市に中央が派遣した大倭 身分が高い倭人がいて監視してる
各国はそれを受け入れたってことで
邪馬台国は各国にそれなりの影響力があったと思われる

27ヶ国のうち邪馬台国に贈り物をして
傘下の中で優位に立ちたい国があってもおかしくはない
候補となる遺跡は外来土器の割合も重要になるんじゃないか

273日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:27:33.15
>>271
なんの反論も無く、喚くだけのボケに邪馬台国を語るには千年早い

274日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:27:35.39
>>252
>>だったらなんで里数が日数に変わってるんだ?
>>不弥国の続きがあるならそのまま里数で書けよ

全文通して矛盾なく書かれているんだから、その答えはかんたんだよ、
不彌国まで積算で1萬600余里(又は1萬700余里)だ、そして郡から女王国までは合計1万2千余里なんだから、あとは小学校の算数だ。
それを帝大学閥のメンツゆえ、途中で捻じ曲げ捻じ曲げしてるから迷路に入ってトンチンカンになってるだけのこと。
学閥とは、なんと明治的で幼稚な思想であることか・・・。

275日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:38:21.93
2世紀中ごろに中国で五斗米道が始まって
215年まで張魯が漢中でやってた宗教だけど
これが倭国に伝わって九州北部がはじめたと思ってる
日本国内に五斗とつく地名がたくさんあって米の産地

卑弥呼や各国の巫女たちは住民が五斗(8kgちょっと)の米を納めれば
祈祷をして清めてたと思われる

五斗は住民たちにはあまり負担にならない量だが
各国の王たちの倉庫にはかなりの米が蓄えられたと思われる

276日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:39:52.92
北海道の銅鐸は本土から持ち込まれたものだよ。
アイヌも元は東北地方にもいたからかも、
ようわからないが、、

前方後円墳は流行で良いでしょう。

277日本@名無史さん2021/11/30(火) 18:42:33.46
追記
銅鐸も流行だと思う。古代全国統一した政権は無いから

278日本@名無史さん2021/11/30(火) 19:09:07.34
このように
九州説はアンチ歴史学

279日本@名無史さん2021/11/30(火) 19:30:25.68
>>266
それだと不弥国までの行程要らねえじゃん

280日本@名無史さん2021/11/30(火) 19:31:38.36
>>269
何の為に不弥国書いてるのよ

281日本@名無史さん2021/11/30(火) 19:32:35.56
>>274
だから何の為に不弥国書いたのよ

282日本@名無史さん2021/11/30(火) 19:59:23.77
>>140
なるほど!

283日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:18:20.50
>>281
郡から女王国まで1萬二千余里と書かれているだけでは、南に行くべきか、東に行くべきか迷う。
女王国にたどり着くことはほぼ絶望的だ。
だから重要な通過点として、6国(又は7国)を記載して、迷うことなくたどり着けるようにしているわけだ。
最期の不彌国(吉野ヶ里一帯)からは、南に1300里(又は1400里)となる。
ま、そんな簡単明瞭なことが理解できないというのは、何ぞ魂胆があるんだろ・・、、

284日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:27:42.06
>>283
方向を示すために書いたと言いたいんでしょ
でも自分が作者になった場合こんな書き方する?
7千里で狗邪韓国に着いてそこから海を渡って末盧国〜〜〜東、百里で不弥国
で帯方郡から女王国へは南に水行10日陸行一月で着く
こんな事が書いてあると言いたいのか?

285日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:36:46.87
帯方郡に戻るなら投馬国も書く必要ねぇし

286日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:40:37.51
なんで南を東の誤りだと無理な理屈をつけてまで邪馬台国畿内説に固執する人がいるのか?
なぜなら、彼らは紀元節を押し通したいからw

もし2世紀とか3世紀に九州に強力な権力があったら、
その時点でいまだに大和が統一されてないということになり、
またその時点で神武東征が行われていない事にもつながり、
紀元節が出鱈目なのがバレちゃうからねえwww

まあ、そんなもんが出鱈目なのは、
初期の天皇達の異様な歳を見ればほぼ九割九分の人がわかっちゃってるんだが…

287日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:42:16.57
水行陸行の部分はかなりの人が悩んでるのに何が簡単明瞭なんだか

288日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:43:04.71
>>284
>7千里で狗邪韓国に着いてそこから海を渡って末盧国〜〜〜東、百里で不弥国

「末盧国〜〜〜東」、←・・・ここのところを省略しないで、きちんと書け。

289日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:44:39.99
>>288
理解できないならおまえレス付けなくて良いから
めんどくせえのになんで俺がそんな事しなきゃならんのよ

290日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:52:40.84
まだここやってるのか
もう近畿に決まっただろ
黒塚古墳のU字型鉄製品が黄幢

291日本@名無史さん2021/11/30(火) 20:57:32.25
>>289
オレはこのスレのPart 1. から出入りしているからな、まあ、ハナから魂胆は見えておるわww

292日本@名無史さん2021/11/30(火) 21:00:01.03
>>291
俺はニュー速+がerrorになった10月からだ
文句あっか?

293日本@名無史さん2021/11/30(火) 21:22:39.71
何の自慢?

294日本@名無史さん2021/11/30(火) 21:24:38.47
ここはいくら書き込んでもerrorが出ないし良いな

295日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:30:33.16
>>271
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の「結論」を、
理由なく言い張るだけの大和説学者らって
知能だめ過ぎでしょう

296日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:37:00.11
>>272
各地の国の市に倭國の中央が派遣した大倭 身分が高い倭人がいて監視してる
各国はそれを受け入れたってことで
九州倭國は各国にそれなりの影響力があったと思われる
各地の大倭職のうち、倭國の女王國から贈り物をして貰って
傘下の中で優位に立ちたい国があってもおかしくはない
候補となる遺跡は九州の土器の割合も重要になるんじゃないか

297日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:41:24.74
>>275
全文通して矛盾なく書かれているんだから、その答えはかんたんだよ、
不彌国まで積算で萬二千余里だ、
そして郡から女王国までも萬二千余里なんだから、あとは殆ど0里だ。
それを帝大学閥のメンツゆえ、途中で捻じ曲げ捻じ曲げしてるから、
迷路に入ってトンチンカンになってるだけのこと。
学閥とは、なんと明治的で幼稚な思想であることか・・

298日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:44:55.62
>>278
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定のように
大和説学者らはアンチ歴史学

299日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:52:49.28
>>281
>だから何の為に不弥国書いたのよ

邪馬壹國女王之所都の入り口付近になる国であり、
半島不彌國人や、楽浪住民や、
渡来の楽浪鏡師らも(魏の楽浪帯方攻撃から)避難して来ており、
南九州の投馬國への出航地の、大事な国であったから。

300日本@名無史さん2021/11/30(火) 22:59:50.89
>>285
>帯方郡に戻るなら投馬国も書く必要ねぇし

南九州にある五万戸の投馬國は、
伊都國の一大率の阿毎氏系で、卑弥呼の共立に賛成した大国だから。

301日本@名無史さん2021/11/30(火) 23:10:19.11
辻褄を合わせようとして、どんどん出鱈目になっていく九州説

302日本@名無史さん2021/11/30(火) 23:11:16.53
>>290
まだここやってるのか?、もう九州に決まっただろ 
4世紀の黒塚古墳も鉄鏃などの墓だから、
九州倭國の東征毛人五十五國の将軍の中の一人の墓であり、
(U字型鉄製品の)黄幢?であっても、難升米からその子孫に受け継がれて、
その子孫が黒塚に埋葬された可能性がある、という事になるだけ。

303日本@名無史さん2021/11/30(火) 23:12:18.27
>>299
それならそのまま続きを書けば良い訳でなんで帯方郡に戻るのよ
帯方郡から女王国迄南に水行10日陸行1月と書いてあるんだしそれで良いじゃん

304日本@名無史さん2021/11/30(火) 23:16:04.33
>>301
辻褄を合わせようとして、
九州説にイチャモンを付けたが、
どんどん出鱈目になっていく大和説学者ら

305日本@名無史さん2021/11/30(火) 23:29:35.43
倭国を紹介するんだから帯方郡から女王国迄南に水行10日陸行1月で距離は1万2千里で問題ないはず
勿論より詳細に書いた方が良いに決まってるんだけど
途中で説明もなく里数を日数にかえて帯方郡からと言ってもわかんねえじゃん

306日本@名無史さん2021/12/01(水) 00:10:57.34
>>305
馬鹿には、な

307日本@名無史さん2021/12/01(水) 01:14:50.65
解ると言ってるのが、
竹島は韓国に統治権があると言い張っている反日有害鮮人

308日本@名無史さん2021/12/01(水) 01:24:00.13
>>215,239
あなたは長崎奉行がヨーロッパの物を得ていたからといって
長崎奉行がヨーロッパまで行ったと考えているのか?

外国人がやってくる拠点の住人が
外国に行けるとは限らない

航海技術では朝鮮人・対馬人・壱岐人の方が
博多人より優れていただろうから
一方通行だった可能性もあり得る

309日本@名無史さん2021/12/01(水) 02:24:03.35
>>308

長崎は江戸幕府の直轄地
長崎奉行は外国商人を支配する任期制の役職
博多の首長は博多を統治する首長

310日本@名無史さん2021/12/01(水) 02:26:13.23
>>308
「あり得る」が、なんの根拠になるの?

311日本@名無史さん2021/12/01(水) 04:17:57.95
>>302
九州で決まると、畿内説でメシを食えない学者が増える。

312日本@名無史さん2021/12/01(水) 04:20:34.48
いまの畿内説は、宗教みたいで怖い

313日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:04:07.52
>>311
>九州で決まると、畿内説でメシを食えない学者が増える。

妄想が激しい九州説男だな
キウスかな?
学者として飯を食っていて畿内説な人間は山ほどいるが
畿内説で飯を食っている人間は居ない
何故なら、邪馬台国論争で飯の食える時代ではないからだ
もう古田や安物の時代ではない

314日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:27:11.37
各地の博物館の学芸員とか全員同じ見解で解説とか書いてるんでしょ?

315日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:47:45.57
>>313
>もう古田や安物の時代ではない

もはや、「阿波」の時代となっている。   @阿波

316日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:52:12.33
どっちかに決まるとも思えんし今後もこの状態が続くよ
こんな事で金儲けをしてる奴が居る事に腹をたてるのもわかるけど
それだけ発信力があるって事でしようがない

317日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:57:16.74
埴輪も調べると面白いね!

318日本@名無史さん2021/12/01(水) 06:58:36.19
>>313
古田さんは教師でしたよ。

319日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:03:07.86
>>316
邪馬台国に興味ある一般人が多いからだよ。
石器の捏造事件なんて学者名すら知らなかった。興味が無いからであろう。
邪馬台国は考古学者が名前を売るにはもってこいのお題。だから、名を売るためにトンデモが横行する。マスコミもマスコミだがね

320日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:16:59.51
>>319
>>291が俺に魂胆とか言ってきたのはそういう事なのかな
でも俺はここで思う事を正直に書くのが面白い

321日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:28:45.45
俺は大阪説とは言ってるけど肝は陳寿は勘違いしてるって事なんだけど
行程が里数から日数にかわってて明らかにおかしいのにそれを指摘するとトンデモになるのか?
てか邪馬台国の説なんて既に出尽くしてるだろうしここに書かれてる事全て過去に唱える人は居たでしょ

322日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:29:17.01
>>316
>こんな事で金儲けをしてる奴が居る事に腹をたてるのもわかるけど

九州説って困ったもんだね

323日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:37:01.25
>>322
金儲けは九州説もお互いにでしょ

324日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:42:31.59
まあ俺自身は本を読む気も無いし1のテンプレも読む気しねえ

325日本@名無史さん2021/12/01(水) 07:57:01.90
箸墓は岡山の豪族の墓じゃねーか。
纏向は墓地。
畿内を中心に倭国とは違う文化圏があったで良いと思うがな。

326日本@名無史さん2021/12/01(水) 08:00:19.11
>>322
こんな嘘つき騙しのインチキな事で金儲けをしてる大和説学者らや、
マスコミや公的機関や極右宗教家らが居る事に、
腹をたてるのもわかるけど
大和説って困ったもんだね

327日本@名無史さん2021/12/01(水) 08:08:45.21
>>326
インチキとか正しいとかじゃ無いんだよ
ハードルが低く誰でも参加できる議論で金儲けしてるのが気に食わないって事だから

328日本@名無史さん2021/12/01(水) 08:37:04.26
>>187
>>290
こんな神武東征はイヤだ!

曹魏皇帝(黃幢)の威を借りて安芸・吉備・饒速日を征服する神武天皇

329日本@名無史さん2021/12/01(水) 08:48:32.96
>>302
ダンワラ古墳の鉄鏡も伝世だろうしな

330日本@名無史さん2021/12/01(水) 09:03:19.38
>>115
>>329
ダンワラ古墳の鉄鏡は、卑弥呼の王宮跡地を高良大社に再開発してるドサクサに、麓の祇園山古墳(卑弥呼の冢)が盗掘され、ダンワラ古墳に葬られた可能性がある

卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に...
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡〜中国・曹操高陵の発掘責任者が見解
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘調査した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌・珠龍文・鉄鏡(きんぎんさくがん・しゅりゅうもん・てっきょう)」を、
邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
「魏志倭人伝」は、景初3(239)年に卑弥呼の使いが魏の皇帝から「銅鏡百枚」を下賜されたと記している。
ダンワラ古墳の鏡は鉄製だが、潘氏は「倭人伝が『銅鏡』と表現したのは、鏡の総称として用いたのだろう。そこに鉄鏡が含まれても不自然ではない」と解説した。「魏の側からすれば、最高品質の鉄鏡を贈ることで、倭に工芸技術の高さを示そうとしたのだろう」と推測する。

331日本@名無史さん2021/12/01(水) 09:52:29.44
伝日田の横穴墓出土の鉄鏡は鮮卑の墓の盗掘品だろうな

332日本@名無史さん2021/12/01(水) 09:58:49.42
曹操高陵の鉄鏡もねw

333日本@名無史さん2021/12/01(水) 09:59:50.77
>>310
博多人が外国へのアクセスができず
外国にアクセスできる外国人・北西九州人のもたらす
大陸産品頼りだったら、
畿内ヤマト政権が博多を支配していた所で
邪馬台国ではないことになるだろ?

334日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:21:45.56
>>324
>まあ俺自身は本を読む気も無いし1のテンプレも読む気しねえ

それで他人の説をとやかく言ったら馬鹿丸出し

335日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:26:31.24
>>110
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀?!^^)。

まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!

ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した忖度(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
>>118
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいですね( *´艸`)

336日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:27:04.76
>>333

北西九州人って、具体的にどこの?

337日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:39:11.08
>>334
俺ここに書き込むだけだから著名人の説なんて全然知らね

338日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:43:45.52
>>336
具体的な話のできないのが九州説

339日本@名無史さん2021/12/01(水) 10:50:40.57
>>337
何を書き込んだ?

340日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:01:57.41
>>339
たくさん
ニュー速+なら連投errorが出そうなくらい書き込むこともある

341日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:04:04.98
弥生時代では糸島の方が博多より海外との交流が盛んらしい
畿内が博多を抑えれば九州説が絶望的になる理由が全く分からん
むしろ糸島を畿内が抑えてないことが畿内説を絶望的にさせてない?

○三雲・井原遺跡番上地区は弥生時代の「倭国(日本)の迎賓館」兼「中国の公使館」
>弥生時代の中期末〜後期(約2000〜1800年前)に銅鏡をはじめとする中国製の品々が最も多く見つかっているのが伊都国です

>楽浪系土器は…福岡平野では近年、比恵・那珂遺跡で確認されているが、いずれも1〜3点程度の出土に留まり、集中はしていない。糸島地域は全国的にみて、集中する地域にあたる

342日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:08:22.43
>>340
>たくさん

例えば?

343日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:14:37.08
>>342
自分て表示が出てる書き込みだけで昨日25個今日8個
例えばと言われても俺大阪説唱えてるから

344日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:27:55.95
>>341
>弥生時代では糸島の方が博多より海外との交流が盛んらしい

2世紀の糸島→3世紀の博多、という具合に盛衰
それで九州説は絶望的


>畿内が博多を抑えれば九州説が絶望的になる理由が全く分からん

三世紀前半から畿内と博多は密な交流がある
それを魏が知らない=ナンセンス
それで九州説は絶望的

>むしろ糸島を畿内が抑えてないことが畿内説を絶望的にさせてない?

糸島に影響を及ぼしうる他地域は畿内と山陰
九州内のどこも糸島に影響を及ぼし得ていない
それで九州説は絶望的

345日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:50:21.19
>>341

「楽浪土器の最後の分布状況(TB期〜UA期)は糸島と福岡平野が拮抗し、
楽浪土器と交替的な馬韓土器は福岡平野が多く、
「貿易」を主管する勢力が伊都国から奴国に移っている。」 (久住)

346日本@名無史さん2021/12/01(水) 11:52:12.85
>>343
>例えばと言われても俺大阪説唱えてるから

一つも書けないの?

347日本@名無史さん2021/12/01(水) 12:10:22.19
>>325
>畿内を中心に倭国とは違う文化圏があったで良いと思うがな。

どう違うわけ?
九州説って、いつも具体性ゼロでいいの

348日本@名無史さん2021/12/01(水) 12:57:01.47
>>346
>>321が俺だけどどう?

349日本@名無史さん2021/12/01(水) 13:05:52.51
倭国てのは中国が言ってる名前であって日本じゃ認識も違うかもね
縄文時代から全国の交易の痕跡はあるんだし

350日本@名無史さん2021/12/01(水) 13:38:23.79
>>327
学者のやる事では無い。銭が絡むと捏造の温床になる

351日本@名無史さん2021/12/01(水) 13:39:55.37
>>334
一度読んで下らんと思えば読まないよ

352日本@名無史さん2021/12/01(水) 13:42:41.32
>>344
思うのは勝手だがねー
納得できる根拠が無い

353日本@名無史さん2021/12/01(水) 13:48:27.86
>>352
そうやって、まったく反論せず
ただ拒絶というのが
コミュ障だぞ

354日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:03:01.16
>>350
>学者のやる事では無い。銭が絡むと捏造の温床になる

何が「学者のやる事では無い」の?
中身がないと、ただの悪質な中傷なんですけど

355日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:06:41.98
>>354
俺にレス付けてるからそこもちゃんと読めよ

356日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:10:24.81
>>355
何を読めっていうんだ?
ちゃんと言えないのか?
つまりお前はうす汚い中傷屋なのか?

357日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:12:44.13
>>346
奈良の墓地よりまし

358日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:38:13.09
>>357
何がまし?

359日本@名無史さん2021/12/01(水) 14:49:13.91
>>355
ちゃんと他人と会話できないコミュ障なのか?

360日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:26:51.70
>>359
おまえだろ コミュ障はなんでもかんでも噛み付くだけで意見無し
なぜならボロがでるかだろ

またほざくだけだろうな

361日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:28:27.43
>>336
下記によると朝鮮半島南岸で出土する
弥生土器は佐賀・糸島・多久あたりが多いそうだから
その辺だろう

また壱岐で出土する弥生土器も糸島のが多いという

弥生時代の北東九州が思った以上に
大陸アクセス力がない

畿内ヤマト政権が北東九州を支配すると
どうして九州説が絶望になるのか全く分からない

29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c_pdf/04kouko2503.pdf

362日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:43:40.77
>>361
この、どうしょもない馬鹿っぽさはキウス臭いんだが

363日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:50:30.52
>>331
>伝日田の横穴墓出土の鉄鏡は鮮卑の墓の盗掘品だろうな

何故「鮮卑の墓の盗掘品」になるんですか?。

364日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:52:38.38
>>361

(3)勒島解体以降

「朝鮮半島での弥生時代後期初頭以降の弥生土器の出土は極端に少なくなる。」

365日本@名無史さん2021/12/01(水) 15:53:18.75
>>332
>曹操高陵の鉄鏡もねw

これも、何故「鮮卑の墓の盗掘品」になるんですか?。

366日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:01:24.73
>>363

伝横穴墓程度の墓に宝石を散りばめた鉄鏡と一緒に
北方騎馬民族が使う金錯鉄帯鉤(バックル)が出てるから

367日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:03:57.77
>>338
>具体的な話のできないのが九州説

「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅は倭國」の否定などの、
具体的な史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの話しか出来ないのが、
大和説。

368日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:05:30.97
>>361
>どうして九州説が絶望になるのか全く分からない

支持者の頭が悪いから絶望的だろう
理由は>>361添付の論文を見れば明らか

369日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:24:03.35
>>344
2世紀の糸島→3世紀の博多、という具合に盛衰
それで3世紀末以後に庄内1になった大和説は絶望的

三世紀末以後から大和は博多からの密な伝搬交流がある
それで大和説は絶望的

糸島は、天孫族の天孫降臨の阿毎氏の「自昔の東征」の一大率軍の出立地であり、
影響を余り及ぼせなかった他地域は山陰と南四国と中部山岳以北。
九州内でも、南九州の投馬國は糸島に影響を受けた
それで「大和=列島盟主」説は絶望的

370日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:50:52.78
>>369
こういうデタラメ言うからまた九州説は信用を失なう

371日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:52:22.79
>>345
>「楽浪土器の最後の分布状況(TB期〜UA期)は糸島と福岡平野が拮抗し、
楽浪土器と交替的な馬韓土器は福岡平野が多く、
「貿易」を主管する勢力が伊都国から奴国に移っている。」 (久住)

久住も、「福岡平野==奴國」と言っているようでは、史料事実の曲解のダメ男だな。
奴國は、「日向峠西麓平野部〜平良平野、及びその周辺丘陵地」であり、
不彌國が藤崎西新町などの博多湾岸であり、
邪馬壹國が福岡平野中央部〜筑紫平野及びその周辺丘陵地。
また、楽浪人が、わざわざ海も渡ってまでして、
はるか海外の藤崎西新町付近に移り住む必要がないのであり、
それは、魏の楽浪帯方攻撃戦争で、
危険を感じた楽浪住民や呉系の楽浪鏡師らが緊急流民になって、
既に馬韓の不彌國の同部族民であった「博多湾岸の不彌國」を頼って渡来して来た、
という事になるだけ。

372日本@名無史さん2021/12/01(水) 16:59:02.47
>>371
それ、誰も賛成しないから

373日本@名無史さん2021/12/01(水) 17:35:22.94
>>347
>>畿内を中心に倭国とは違う文化圏があったで良いと思うがな。

>どう違うわけ? 九州説って、いつも具体性ゼロでいい?

倭地において、
九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」などで造られた国々は、
(出雲や越や侏儒國や独立的な毛人蝦夷の国とは違って)、
形の上では、元の九州倭國と完全に同じ支配下の同一國になったのではなく、
別種分家の倭種や、地方の市を監督する「大倭」職などとしての、
半独立的な旧小国、という形の国々になっていた、
という事だよ。

374日本@名無史さん2021/12/01(水) 17:55:31.17
>>373
分家なら同じ文化圏だろ

375日本@名無史さん2021/12/01(水) 17:59:35.04
>>349
>倭国てのは中国が言ってる名前であって日本じゃ認識も違うかもね
縄文時代から全国の交易の痕跡はあるんだし

いや、元々倭人は、周代に中国での「燕の南」いて、
「倭」は部族の呼称して呼ばれていたものであり、
その部族が半島を通って、海峡から北部九州に移住したものであり、
その倭人が列島で領土を持って国を造れば、「倭國」と自称してもおかしくない。

376日本@名無史さん2021/12/01(水) 18:07:04.28
>>375の追記
>倭国てのは中国が言ってる名前であって日本じゃ認識も違うかもね
縄文時代から全国の交易の痕跡はあるんだし

いや、元々倭人は、周代に中国での「燕の南」いて、
「倭」は部族の呼称して呼ばれていたものであり、
その部族が半島を通って、海峡から北部九州に移住したものであり、
その倭人が列島で領土を持って国を造れば、「倭國」と自称してもおかしくない。
そして、天孫族や阿毎氏は、その倭人の中の一部族であり、
呉王夫差の遺民の姫氏は、
その倭人と居住地が近縁であったために「合同」した形になった氏族。

377日本@名無史さん2021/12/01(水) 18:23:43.82
>>361
>下記によると朝鮮半島南岸で出土する
弥生土器は佐賀・糸島・多久あたりが多いそうだからその辺だろう

倭人は、一旦半島南部にとどまった後、海峡地域に広がって、
一旦出雲のNo.2になっていたようであり、
国譲り戦争で勝利して、独立的になり、
その中の天孫族の阿毎氏のニニギらが、能古島から姪浜付近に上陸して、
日向峠の北のクシフル付近に天孫降臨した。

>また壱岐で出土する弥生土器も糸島のが多いという
弥生時代の北東九州が思った以上に大陸アクセス力がない

海峡の南北の通行や交易を支配していたのは、
東松浦半島の西北沖の鷹島や黒島の松浦水軍家の「都市」氏であり、
だから、都市牛利が、魏への遣使の「次使」に選ばれた。

378日本@名無史さん2021/12/01(水) 18:32:19.31
>>加古川反日有害鮮人のすべてのレス

人種的に不要。

379日本@名無史さん2021/12/01(水) 18:37:30.18
>>378
そんなザラコクでも、嘘以外の事を言うことはあるんだぜ、まれに

380日本@名無史さん2021/12/01(水) 18:57:13.89
>>366
>伝横穴墓程度の墓に宝石を散りばめた鉄鏡と一緒に
北方騎馬民族が使う金錯鉄帯鉤(バックル)が出てるから

成程。そうでしたね。
そして、後漢以後の〈唐代頃までの)北方騎馬民族中のもっとも強かったのは、
鮮卑でしたね。。

381日本@名無史さん2021/12/01(水) 19:03:35.68
>>361
>どうして九州説が絶望になるのか全く分からない
>29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/c_pdf/04kouko2503.pdf

わからない理由は>>361が馬鹿だから
その論文、冒頭に弥生中期のことだって書いてあるし
西北九州って博多も含まれる
つまり内容まったく理解してない
やっぱり九州説は絶望
馬鹿ゆえに

382日本@名無史さん2021/12/01(水) 20:30:55.25
奴婢がいるのに、生口がいる

生口の流れ、どこから?どこへ?

383日本@名無史さん2021/12/01(水) 20:44:56.17
「「博多湾貿易」の成立と解体・再論〜土器からみた倭と韓半島の交易網の変遷〜」によると
博多湾貿易が始まったのが弥生時代終末期後半で
博多が「対外交易のセンター」になったのが古墳時代初頭だという

どうも博多は思った以上に「新参者」らしい

弥生時代終末期=邪馬台国時代らしいので
博多湾貿易の開始時期は邪馬台国と重なるが
後漢書にある1世紀の倭奴国とは重ならない

つまり金印を貰った倭奴国は博多ではないらしい

同時期の海外交易拠点は糸島なので
奴国は北西九州の可能性が高いだろう

奴国が博多でないなら
畿内説の主張する奴国=博多論が、そもそも間違いだし
邪馬台国連合に博多は含まれてない可能性がある

384日本@名無史さん2021/12/01(水) 20:52:35.29
>>383
常識じゃ奴国が博多

385日本@名無史さん2021/12/01(水) 21:09:18.50
「「博多湾貿易」の成立と解体・再論」によると
朝鮮半島南東部にはUB期(古墳時代前期前半)からしか
畿内系土器はなく、それ以前は北九州在来系が主らしい

「土器の流入が征服の証拠論」に乗るなら
邪馬台国時代の朝鮮半島南岸は
畿内の支配下ではなく
北九州の支配下ということになるだろう

386日本@名無史さん2021/12/01(水) 21:22:47.82
「原の辻遺跡 総集編U―平成17年度から平成26年度までの調査成果―」によると
壱岐の大規模集落である原の辻遺跡で
畿内系土器が多くなるのは
古墳時代初頭からで、それ以前は北九州系が主だという

「土器の流入が征服の証拠論」に乗るなら
朝鮮半島南岸・対馬・壱岐を
畿内勢力が支配するようになったのは
古墳時代からのことで
邪馬台国時代は北九州が支配していることになる

畿内説は、これに対してどう反論するのか?

387日本@名無史さん2021/12/01(水) 22:01:19.67
まあ皆さん。
機内もいいけど、もっと東に目を向けましょうよ。

388日本@名無史さん2021/12/01(水) 22:08:58.92
西に負けて悔しいからせめて東とか乞食かお前はw

389日本@名無史さん2021/12/01(水) 22:20:50.31
ヤマトを騙った巫女の末裔が何か?

390日本@名無史さん2021/12/01(水) 23:08:46.79
>>386
>畿内説は、これに対してどう反論するのか?

「土器の流入が征服の証拠論」が馬鹿の捏造なので無効だと反論する

391日本@名無史さん2021/12/01(水) 23:47:05.90
>>390
では、何を根拠に北九州を、支配してたと言うのか?

392日本@名無史さん2021/12/01(水) 23:57:53.97
誰か教えて
倭人伝<傳送文書賜遺之物詣女王
とあり、文書なやりとりは当時あった。
何故、記紀編纂まで、文書らしきものが日本に残って無いのであろうか?
注)文字てなく文章

393日本@名無史さん2021/12/01(水) 23:59:12.24
編纂まで文書が残っていたから編纂できた

以上。

394日本@名無史さん2021/12/02(木) 00:15:18.26
>>383

福岡平野勢力(=奴国)と書いてある

>>385,386

だから博多湾貿易と呼ばれる

395日本@名無史さん2021/12/02(木) 00:44:56.61
>>391
>では、何を根拠に北九州を、支配してたと言うのか?

言ってないから関係ない

396日本@名無史さん2021/12/02(木) 01:01:08.25
支配してたてのは税金取ってたかどうかでしょ
この時代どうだったんだろうなあ

397日本@名無史さん2021/12/02(木) 04:00:08.94
>>390
そうだとしても北九州勢が畿内勢より
朝鮮半島南岸・対馬・壱岐と親密だったのは
変わらないだろ?

これらの地域で畿内勢の影響力が北九州勢を
上回らないと畿内説は成り立たないのでは?

398日本@名無史さん2021/12/02(木) 04:28:30.52
>>393
なぜ見つからないかの質問じゃねーの
記紀に関連しない文書も含めて
俺も知りたい

399日本@名無史さん2021/12/02(木) 04:38:14.09
弥生時代末期に博多に
畿内系土器・朝鮮系土器が増えるが
朝鮮半島南岸に畿内系土器は増えない…

これは博多人が朝鮮半島に行けず
朝鮮系土器の入手を大陸人の持ってくるのに
頼っていたことを意味すると思う

やはり新参者の博多人は
航海技術が糸島人より未熟だから
糸島人から交易ルートを奪っても、
それを十分に生かせなかったのでは?

空白の4世紀は文明人である
邪馬台国連合(糸島を含む)
野蛮な博多人・ヤマト人が滅ぼしたから
起きたのではないか?

400日本@名無史さん2021/12/02(木) 05:00:06.32
>>395
君はね。言ってないなら首を突っ込まなくてよい。
もしくは、言ってる奴に反論すれば良い。

401日本@名無史さん2021/12/02(木) 05:03:17.77
>>399
博多の地域は倭国に入らないと言う事なのですか?

402日本@名無史さん2021/12/02(木) 05:07:16.30
>>399
無茶苦茶
九州説を陥れる畿内説の馬鹿が考える事だなww

403日本@名無史さん2021/12/02(木) 05:58:37.40
>>384
>常識じゃ奴国が博多

文献的常識では、卑弥呼共立の頃の奴國は、
日向峠西麓平野〜早良平野及びその周辺丘陵地であり、
海峡の天孫族の阿毎氏のニニギらの姪浜付近への上陸部隊と、在地の猿田彦らとの、
(紀元前2世紀頃に)合同した、かなり大きな国であったのであり、
その中心はおそらく吉竹高木付近であり、
57年頃の漢委奴國王の頃はまだ合同していたようであるが、
その後の「倭國亂」の時には分裂して、
卑弥呼共立の頃には、
前原〜糸島水道付近が伊都国として分離独立していた、と推定出来る。

404日本@名無史さん2021/12/02(木) 06:08:13.11
>>385
>「「博多湾貿易」の成立と解体・再論」によると
朝鮮半島南東部にはUB期(古墳時代前期前半)からしか
畿内系土器はなく、それ以前は北九州在来系が主らしい
「土器の流入が征服の証拠論」に乗るなら 
邪馬台国時代の朝鮮半島南岸は
畿内の支配下ではなく 北九州の支配下ということになるだろう

成程。
大和などの「地方の市を監督する大倭職の国々」が、
3世紀末頃から作った庄内などの土器を、
必死になって「市」を介して、九州倭國〜狗邪韓國へ売りさばいて、
頑張った、という事なんですね。

405日本@名無史さん2021/12/02(木) 06:21:43.37
>>392
>倭人伝<傳送文書賜遺之物詣女王
とあり、文書なやりとりは当時あった。
何故、記紀編纂まで、文書らしきものが日本に残って無いのであろうか?
注)文字てなく文章

「紙」であれば、7世紀前半の大和政権に拠る「焚書」事件があって、
ちょっと保存困難であろうが、
松野氏姫氏系図や一部の豪族の系図伝承や一部に残っていたし、
倭王武の上表文なら宋書に残っているし、
銅鏡などの記銘鏡などの金石文にも、記録が残っている。

406日本@名無史さん2021/12/02(木) 06:27:21.23
>>394>>395
>福岡平野勢力(=奴国)と書いてある
>だから博多湾貿易と呼ばれる

福岡平野勢力(=奴国)はダメでしょうね。
奴國は日向峠西麓平野部〜早良平野及びその周辺丘陵地。
福岡平野勢力は、不彌國や邪馬壹國女王之所都の勢力地域。

407日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:04:02.26
>>187
>>302
こんな神武東征はイヤだ!

曹魏皇帝(黃幢)の威を借りて安芸・吉備・饒速日を征服し、初代大王に即位する神武天皇

408日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:18:58.75
>>399

福岡平野産の筑前型庄内甕は今津湾沿岸に多量に搬入されている

409日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:23:01.89
>>399
>弥生時代末期に博多に畿内系土器・朝鮮系土器が増えるが
朝鮮半島南岸に畿内系土器は増えない…

ここから、少しおかしい。
大和の庄内は、3世紀末であり、筑紫の3世紀前半頃ではない。

>これは博多人が朝鮮半島に行けず 朝鮮系土器の入手を大陸人の持ってくるのに
頼っていたことを意味すると思う

これも問題があると思う。
博多湾岸人は、不彌國人と邪馬壹國女王之所都人が中心である。

>やはり新参者の博多人は 航海技術が糸島人より未熟だから
糸島人から交易ルートを奪っても、それを十分に生かせなかったのでは?

不彌國人には、楽浪人や半島人も渡来存在しており、
新たな水行や渡海も十分に出来る部族であった、と思う。

>空白の4世紀は文明人である 
邪馬台国連合(糸島を含む)野蛮な博多人・ヤマト人が滅ぼしたから
起きたのではないか?

意味不明だが、「野蛮な博多人・ヤマト人が滅ぼした」というのは、間違いだですね。

410日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:26:44.38
>>187
>>407
それだ。
記紀の編纂目的は、九州王朝(漢委奴国王・帥升・卑弥呼・台与・讃珍興斎武・阿毎多利思比孤)の10王を消すことだが、
特にヤマト王権を誕生させた神武東征が張政(魏帝)の命令だったことは、口が裂けたら言えないw
そこで、倭の五王を100歳以上にするなど、どんどん年代を繰り上げ操作して(畿内説と同根w)、神武天皇即位をBC660年ってことにしたんだよ(今年は皇紀2681年w)!

411日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:36:28.71
>>397
博多湾貿易の時代なので必要ない

412日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:41:24.78
>>410
ヤマト王権誕生が、帯方郡の王頎(おうき)張政(魏帝曹芳)の命令だったなんて…orz

倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。

倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、

「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」

413日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:47:49.26
倭人伝の不可得詳の傍国の最後に出てくる奴国が博多だ。
だから今も、博多一帯を「那の津」という。三世紀の博多は、佐賀平野の伊都国と争う大都市だったのだ。

張政も記紀に登場する。彼の「張」の一字は、
中つ国の平定に向かった武御雷の父の「伊都之尾羽張」に残されている。
つまり伊都国とは、佐賀川上の七が瀬遺跡一帯にあった「イツ国」だったのだ。

414日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:49:01.83
>>412
ヤマト王権(九州→本州四国)は三国志(魏呉蜀)のサブストーリー(スピンオフ=副産物)ってこと??

415日本@名無史さん2021/12/02(木) 08:53:13.71
>>410
>>414
ヤマト王権誕生(神武東征)は帯方郡太守の王頎(おうき)と張政の指導でしたって、
三国志の権威・渡邊義弘先生(古代中国史・畿内説)に教えてあげなよw

416日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:12:11.28
神武東征後に誕生したヤマト纏向王権は、その後国内統一を果たすと、
神功皇后によって倭王権は再び筑紫甘木朝倉に西遷し、倭の五王や阿毎多利思比孤らは九州にいて半島派兵を押しし勧めた。
しかし天智の代になって唐と新羅が同盟を結び、百済を滅ぼしてしまったため、白村江で完敗し、再び大和に東遷した。

まとめると、

筑紫邪馬台国→神武東征(東遷)ヤマト纏向王権…国内統一
筑紫甘木朝倉←神功三韓征伐(西遷)倭の五王・阿毎多利思比孤in阿蘇
筑紫太宰府→天智白村江完敗(東遷)…畿内中心の歴史のはじまり

417日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:15:24.37
まとめると=妄想すると

418日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:16:42.88
>>416
纏向王権?
ハー

419日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:18:43.26
>>416
纏向は神武の王都か!

420日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:23:15.32
またしても箸墓オレオレ詐欺の畿内説が崩壊してしまったのだね・・・

421日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:29:01.84
>>419
卑弥呼の冢…祇園山古墳
台与の墓…那珂八幡古墳第2主体(第1主体は父「男弟」)
神武の墓…箸墓(台与から倭王権譲位→吉備東征後)

422日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:31:16.47
>>421
台与から倭王を譲位された投馬国王(神武)東征後、倭迹迹日百襲姫が追葬された箸墓の断面図(北側から)
……………………….______
5 段目……………-/神武+百襲姫\←崇神が追葬
4段目…………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________
3段目………/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\___________\_
2段目……/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\____________\_
1段目_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_____________\__地面
……… ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

423日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:32:04.12
張政の現地妻の子の一人であった武御雷(タケミカヅチ)が、天照大御神の命によって出雲との国譲り交渉に出かけたわけだ。

もしかして神武も、張政の現地第二夫人の・・・、

424日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:37:53.24
紀元前の王の中には住民に収穫量の半分を差し出せって王もいたんじゃないか
それで九州北部で戦乱になって九州の王が東へ逃げる
そこで畿内と東海の争いが起きて
桓帝と霊帝の間(146〜168年、168〜189年)に倭国は大いに乱れる

残ってた九州北部の伊都国の王は税率を下げて平和裏に統治していて
卑弥呼の東遷により税率が低く緩やかで争いがない統治を
戦乱に疲れた倭国の多くの国や住民が受け入れて広まって大和王権

425日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:40:05.50
三国志東夷伝倭人の条通称魏志倭人伝の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく

426日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:47:22.22
>>416
秀吉の肥前名護屋城(朝鮮出兵)や明治天皇の広島大本営(日清戦争)は、さながら首都のようだったらしい。
神功皇后の甘木朝倉宮(三韓征伐)や応神の宇佐八幡宮(高句麗戦争)はさながら、首都のような様相であったと思われる。
今は全くその面影はないがw

427日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:51:30.21
>>425
身長三、四尺の人々が居るらしい
面白いから是非書いておきましょうってのと一緒だ

428日本@名無史さん2021/12/02(木) 09:54:52.62
>>427
>>108
侏儒(小人)国は(手の平に乗る)少彦名伝承を強調したものと思われる

429日本@名無史さん2021/12/02(木) 10:03:51.53
>>426
>明治天皇の広島大本営(日清戦争)は、さながら首都のようだったらしい。

日清戦争は、中国大陸の清王朝へ攻め込んだのかと思っていたが、違うんだね。
三世紀・公孫氏の領土であったソウル、平壌、遼東が主戦場だったと聞いて、
或る意味、渡来人王権であった倭の五王や神功皇后の(つまりヤマト王権の)半島への反転攻勢を思わせた・・、

430日本@名無史さん2021/12/02(木) 10:15:19.11
>>416
古代倭王権が 筑紫⇔大和 を右往左往してたとすると、色々納得だな
>>115
阿毎多利思比孤と推古(摂政厩皇子)なんか特に

431日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:03:47.06
論じろよ

432日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:09:25.78
>>419
>>430
九州説(正解)と畿内説(不正解)が史上初めて整合したな

433日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:10:17.12
畿内説ってなんでもアリ
とにかく論法が杜撰

434日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:18:45.49
以上、主要誤説をまとめると、

−邪馬台国と狗奴国(さらに熊襲)との混同…熊本北部説(白鳥庫吉、宮崎康平、森村伊作)

−邪馬台国とヤマト王権の遡上混同…畿内説(内藤湖南)

435日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:24:28.26
>>424
>紀元前の王の中には住民に収穫量の半分を差し出せって王もいたんじゃないか
それで九州北部で戦乱になって九州の王が東へ逃げる

「九州の王が東へ逃げる」なんて事は、史料事実にはないから、バツ。

>そこで畿内と東海の争いが起きて
桓帝と霊帝の間(146〜168年、168〜189年)に倭国は大いに乱れる

「倭國亂」は、3世紀初頭頃であり、
「畿内と東海」ではなく、北部九州付近であるし、
後漢書の「桓霊の間」は後漢書の解釈に過ぎないから、いずれも根拠にならずバツ。

>残ってた九州北部の伊都国の王は税率を下げて平和裏に統治していて
卑弥呼の東遷により税率が低く緩やかで争いがない統治を
戦乱に疲れた倭国の多くの国や住民が受け入れて広まって大和王

「大和王」は、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来た別種の、「市」を監督する大倭職の「半独立的な旧小国」であるから、バツ。

436日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:33:19.42
>>435 あるぞ 大阪の池上曽根いずみの高殿20m、滑瀬遺跡すずり
静岡の登呂遺跡高床式倉庫 すべて1世紀

437日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:35:23.78
九州北部の戦乱は吉武の使用したと見られるあとがある剣や
吉野ヶ里の首なし被葬者や矢が骨に刺さったままの被葬者

438日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:38:57.91
>>433
>とにかく論法が杜撰

全く具体的のできないキウスチック悪口で終わる九州説が
ズサーン

439日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:40:12.52
>>437
年代が数百年ずれてる九州説がズサーン

440日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:42:43.34
>>426
>・・・神功皇后の甘木朝倉宮(三韓征伐)や応神の宇佐八幡宮(高句麗戦争)はさながら、首都のような様相であったと思われる。
今は全くその面影はないがw

仲哀も神功も応神も、分家大和政権にとっては大事件として記録されたとしても、
本家九州倭國の半島での戦闘への「応援部隊としての参戦」程度である。

441日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:50:53.50
史料提示まったくしないし年代論もない九州説って、史学じゃあり得ないよね

442日本@名無史さん2021/12/02(木) 11:55:14.57
>>429
>日清戦争は、中国大陸の清王朝へ攻め込んだのかと思っていたが、違うんだね。
三世紀・公孫氏の領土であったソウル、平壌、遼東が主戦場だったと聞いて、
或る意味、渡来人王権であった倭の五王や神功皇后の(つまりヤマト王権の)半島への反転攻勢を思わせた・・

関係がない。
倭の五王らは、はるか昔の紀元前5世紀の呉王夫差の遺民の姫氏の王であり、
神功の大和王権は、周代に燕の南にいて、
それから半島を通って北部九州に上陸した天孫族の阿毎氏の、
「東征毛人五十五國」の別種分家の大倭職の旧小国であり、
年代も関係も離れ過ぎている。

443日本@名無史さん2021/12/02(木) 12:00:22.72
>>436
>あるぞ 大阪の池上曽根いずみの高殿20m、滑瀬遺跡すずり
静岡の登呂遺跡高床式倉庫 すべて1世紀

全て、九州倭國の「東征毛人五十五國」の別種分家などの、
地方の市を監督する大倭職の旧小国。

444日本@名無史さん2021/12/02(木) 12:04:00.08
>>438
具体的な史料事実や史料実態による信頼性が高い具体的な反論ができない、
キウスチック?悪口で終わる大和説が
ズサーン

445日本@名無史さん2021/12/02(木) 12:06:52.22
>>4239
「年代が新しく出る欠陥計測法であるAMS法」で、
年代が50〜100年新しくずれてる大和説がズサーン

446日本@名無史さん2021/12/02(木) 12:10:44.89
>>441
信頼性の高い史料事実や史料実態の提示を全くしないし、
AMS法で50〜100年の新しい年代論の大和説って、
史学じゃあり得ないよね

447日本@名無史さん2021/12/02(木) 12:15:11.38
>>442
>倭の五王らは、はるか昔の紀元前5世紀の呉王夫差の遺民の姫氏の王であり、
>神功の大和王権は、周代に燕の南にいて、それから半島を通って北部九州に上陸した天孫族の阿毎氏の・・、

呉王夫差の遺民であれば、夫差渡来伝承の或る肥後菊池の姫氏のことであろう。
それを博多に付け替えるのは妄想か捏造!

448日本@名無史さん2021/12/02(木) 13:29:07.16
>>447
>倭の五王らは、はるか昔の紀元前5世紀の呉王夫差の遺民の姫氏の王であり、
神功の大和王権は、周代に燕の南にいて、それから半島を通って北部九州に上陸した天孫族の阿毎氏の・・、

>呉王夫差の遺民であれば、夫差渡来伝承の或る肥後菊池の姫氏のことであろう。
それを博多に付け替えるのは妄想か捏造!

松野氏姫氏系図では、火の国山門に渡来した姫氏の中の、
(その一部の?)卑弥呼の祖先になる人々は、まず「委奴」の地に移り、
更に、それからまた一部が「大野」に移った、というような記載になっており、
卑弥呼(実名は刀良)は、その「大野」に移った家系の人になる、
という書き方になっており、
「肥後菊池の姫氏」という記載になっておらず、
また「博多」にもなっていない。
また、「委奴から大野に移った」家系からも、「委奴に残った」家系からも、
その両方で、倭奴國王や帥升らが出ている事になる、という書き方をしている。
また「山門」の地名も、早良平野の海岸付近や、肥前や、筑後や、肥後などにも、
存在しているようである。

449日本@名無史さん2021/12/02(木) 14:00:16.86
畿内説ってなんでもアリ
とにかく論法が杜撰

450日本@名無史さん2021/12/02(木) 14:22:55.72
>>448
>松野氏姫氏系図では、火の国山門に渡来した姫氏の中の、

ここで言ってる「火の国山門」こそ、現在の肥後熊本・菊池市の野間口地区(旧山門郷)である。

451日本@名無史さん2021/12/02(木) 14:55:29.63
>>392
そりゃヤマト政権が邪馬台国じゃないからだろ

やはり文字を知る文明人である
北九州邪馬台国を野蛮なヤマト政権が
倒して文明が後退したのだろう

452日本@名無史さん2021/12/02(木) 15:38:28.68
>>412
>>416
倭王権の東西変遷をまとめると、

@奴国(漢委奴国王・帥升)…倭国大乱・政権交代
A└筑紫邪馬台国(卑弥呼・台与)…狗奴国併合、共立終了・倭王譲位
B_└投馬国王・神武東征(東遷)→張政(魏帝曹芳)の助言で饒速日を征服し、ヤマト王権樹立…国内統一
C筑紫甘木朝倉←神功三韓征伐(西遷)讃珍興斎武(応神仁徳〜雄略)in宇佐八幡宮
D└阿蘇邪靡堆…継体(筑紫君磐井を下剋上)安閑宣化→阿毎多利思比孤
E筑紫太宰府→天智白村江完敗(東遷)…畿内中心の歴史のはじまり

453日本@名無史さん2021/12/02(木) 15:50:24.27
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。

454日本@名無史さん2021/12/02(木) 16:10:55.85
x

455日本@名無史さん2021/12/02(木) 16:14:29.20

456日本@名無史さん2021/12/02(木) 16:47:35.34
>>449
悪口言うだけで全く反論できないのは
九州越がもう滅んでる証拠だよ

457日本@名無史さん2021/12/02(木) 16:59:16.99
>>456
悪口言うだけで全く反論できないのは
大和説がもう滅んでる証拠だよ

458日本@名無史さん2021/12/02(木) 17:11:39.30
邪馬壱と言い張るなら山門地名は関係ないだろ

459日本@名無史さん2021/12/02(木) 18:01:52.12
>>457
おうむ返しばっかりなのはクズコシの脳が死んでるからだよ

460日本@名無史さん2021/12/02(木) 18:49:34.11
昨日の歴史探偵の遣唐使で風向きで渡るベストシーズンいつかってやってて
その中で九州北部からプサンに行くには8月の風向きが一番いい
次いで7月、6月 南東の風が助けてくれる
プサンから帰ってくるのは1月と12月がよくて次いで2月、11月
北東の風で一番遭難しそうなのが9月で次いで10月
4,5,6月は風が穏やかで漕いでいけそう
ただ春と秋は春一番とか台風とか突発的な強風が吹くことがある

461日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:04:56.38
>>458
>邪馬壱と言い張るなら山門地名は関係ないだろ

松野氏姫氏系図に書かれた「火の国山門」に関係がある。

462日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:07:18.09
>>459
>おうむ返しばっかりなのはクズコシの脳が死んでるからだよ

おうむ返しされるばっかりなのは、
大和説者の脳が死んでるからだよ

463日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:11:36.22
>>460
>プサンから帰ってくるのは1月と12月がよくて次いで2月、11月

確かに、帆船ならばそうなんだろう。

しかし、「卑彌呼」時代のような、手漕ぎでは、プサンからは帰って来れない。 あえなく、海の藻屑だ。   @阿波

464日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:16:38.56
外洋航行可能な帆船(構造船)は中国やギリシアには紀元前から存在するから
卑弥呼時代に帆船・構造船がなかったとは断言できない。

465日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:21:46.89
>>462
おうむ返しはバカのやることだって誰でも分かるのに
人間様より鳥の方が頭がいいとか妄想して言い張るのは九州説信者の頭が弱いからだよ

466日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:33:32.21
日本書紀を正史とするなら檀君神話も正史か?
どちらも神話。

百済の太子を人質にしているなら
邪馬台国(倭国)が存続していたとみるへ

467日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:39:02.93
日本書紀を正史とするなら檀君神話も正史か?
どちらも神話。
魏志倭人伝では天皇も一切出てこない。
日本書紀も檀君神話も妄想、空想である。

百済の太子を人質にしているなら
邪馬台国(倭国)が存続していたとみるべき
大和政権の初まりは白村江の戦いの後
100年後頃。

468日本@名無史さん2021/12/02(木) 20:50:41.96
前方後円墳は邪馬台国の墓陵とみるべきでは?
天皇家の墓陵ではない。
何でも邪馬台国のものを上塗りする大和政権論

倭国を邪馬台国と大和政権を混合する歴史
どんだけ渡来朝鮮人を崇める気だ?

469日本@名無史さん2021/12/02(木) 21:22:17.64
>>461

なんで山門が各地に残って邪馬壱が残ってないんだ?

470日本@名無史さん2021/12/02(木) 21:31:37.61
>>468のように
全く理由を言わずに
世間常識と違う日本史を言い張る人は
とてもちゃんと義務教育を受けた日本人に見えないんだけどね

471日本@名無史さん2021/12/02(木) 21:36:12.28
>>127
>>452
箸墓オレオレ詐欺の畿内説の杜撰さは、(考えるのが面倒臭いから)整合性も取らずに「阿毎多利思比孤=厩皇子」としてしまう糞味噌にも表れるな。
大王と呼ばれ、妃と皇太子がおり、女性が600〜700人、阿蘇山が噴火すると、鎮まるよう祈祷を始める。
推古じゃないだろw

472日本@名無史さん2021/12/03(金) 00:55:50.81
>>471がちゃんと古典を読めてないだけ

473日本@名無史さん2021/12/03(金) 07:04:25.10
>>472
そう、古代中国では「南=東」と書くわけだからねw

474日本@名無史さん2021/12/03(金) 07:56:51.35
畿内説のスレなのに劣勢に立つ畿内説
頭がずいぶん悪いからだろう。
頭の良い奴は畿内説に、見向きもしない。
纏向遺跡は王都、箸墓は卑弥呼の墓と未だに信じてるバカ集団だ。
ちょっと考えればわかる筈だが、考える能力も無い。
最大の弱点である南→東を理論整然と解いた学者は誰もいない。

475日本@名無史さん2021/12/03(金) 07:59:16.08
>>123
>>112
陳寿の蛇足「不弥国→投馬国→邪馬台国ルート(嘘)」さえ見抜いて切り落とせれば、九州で決まり。

安直に「南⤴東」90度捻じ曲げた畿内説が、年代遡上マジックハンド似非学問の箸墓オレオレ詐欺に過ぎないことがよく判った!

476日本@名無史さん2021/12/03(金) 08:26:56.94
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「合点承知の助!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw不弥国の南に海がない九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向、左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉のマジックハンドに騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで〔女王国東渡海千里複有国皆倭種〕に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「手遅れになる前に早く救助に向かおう!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流(全滅)しちゃうからあり得ない、纏向は神武東征後のヤマト王権遺跡ってあれほど言ったのに...orz」

477日本@名無史さん2021/12/03(金) 08:52:07.06
>>469
>なんで山門が各地に残って邪馬壱が残ってないんだ?

「邪馬壹」は、
おそらく「邪馬」部族と「(アマの)イ、伊、一、壹」部族との合同國の呼称であり、
「山門」は、
おそらく「邪馬壹國の女王」の直接的支配地域の「入り口や門」の呼称。

478日本@名無史さん2021/12/03(金) 09:24:30.68
>>474
客観性皆無の悪口しか言えないってことは
九州説が負けたってことだよ

479日本@名無史さん2021/12/03(金) 09:34:44.00
>>471
>>475
畿内説は杜撰なだけでなく、安直なんだよね

考えるのが面倒くさいからっていうんで、旧世代の盲点をそのまま踏襲&補強して、陳寿の蛇足を「南→東」ムリヤリ押し込み、オレオレ詐欺やってる
騙されないぞ!w

480日本@名無史さん2021/12/03(金) 09:36:30.55
>>479
そんな客観性皆無の悪口しか言えないってことは
君がが負けたってことだよ

481日本@名無史さん2021/12/03(金) 09:51:40.98
>>478
史料事実や史料実態などからの帰納的確率的な論が立てられず、
客観性皆無の悪口しか言えないってことは
大和説が負けたってことだよ

482日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:00:39.50
>>477

根拠なし。

483日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:08:10.92
>>479
「南→東」畿内説なんて、文科省御用学者業界のネズミ講だよ
内心(何か、おかしいな・・・)と思ってても、先達の錯誤をそのまま踏襲しとけば、居心地が良く昇進もスムーズ、食うに困ることはないわけ

484日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:12:22.54
>>483
そんな客観性皆無の悪口しか言えないってことは
君はもう論破されてる人ってことだよ

485日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:16:18.58
肥後に山門郷が奈良時代には存在した事実があるから
熊襲偽僭説の熊襲偽系図が作られてるのに
邪馬壱なら熊襲とは全く繋がらない
ただ人名だけを羅列した偽系図でしかない

486日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:19:12.13
>>127
そうかもしれません

487日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:31:24.55
白い巨塔ならぬ、古い巨塔が一挙に倒壊した畿内説哀し!

488日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:39:29.93
>>476
>畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああ!!福永伸哉のマジックハンドに騙されたぁああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)

ワロタw

489日本@名無史さん2021/12/03(金) 10:56:58.37
東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
とかの記述で官命の聞き書きはともかく
戸数って誰が数えて記録してるの?
文字の使用すらまともに発見されていない状態で戸籍があったわけでもないだろうし
使う必要のないそれだけ大きな数を原住民が把握していたとは考えられない
わざわざ使節が数えたはずもない
おそらくは行ってもいない投馬国が五万戸?
みなさんこれを信じてるんだ
あったかどうかも分からない女王国までの行程は端からいい加減な捏造だろうけど
東夷伝がそれほど信憑性のある記録とは到底思えんわ
誰かこういう数字の出自と正確性の根拠教えて
役人の陳寿ちゃんが国史に嘘書くはずないじゃないか、ってこと?
でもそれは根拠じゃないよね

490日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:09:57.21
戸籍がなくても首長は領域の大体の人口は把握してるだろ

491日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:10:52.96
初見さんのために一応貼っとくかな

日本史板常駐の諏訪ガイジの特徴

・諏訪神党に縁があるらしく関連スレに出没
・諏訪氏がハプログループC2であることにコンプレックスを抱く
・自身が渡来系である可能性に不安を抱き皇族以外は日本人じゃないと主張
・言動は典型的な高齢ウヨクで皇族信者
・誰でも知ってるような浅い日本史知識を披露する
・アンカー付けずに番号だけで返信する
・今じゃほとんど使われない古い顔文字を使う
・知性が無いので反論になってない反論をする

492日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:31:36.68
>>489
ヒント:帯方郡使

493日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:36:15.69
>>488
これがキウスのセルフレス

494日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:36:25.36
>>488
これがキウスのセルフレス

495日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:39:45.23
福永伸哉のマジックハンドって何?

496日本@名無史さん2021/12/03(金) 11:51:03.15
>>489
>東南至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
とかの記述で官命の聞き書きはともかく
戸数って誰が数えて記録してるの?・・・

当然、魏の役人らによる「実地の見聞や計測」で得られた情報から、
陳寿が倭人伝に記載。

497日本@名無史さん2021/12/03(金) 12:02:29.03
>>489
根っからのアホやなあ
国と名がつけられたということは、国家王権による徴税と徴兵が行い得る体制が有ったということだ。
つまり、戸籍簿のような文書文字に依らずとも、
徴税徴兵の基礎となる戸数人口を把握できる国内統治体制(例:口コミ網)が有ったということだ。

498日本@名無史さん2021/12/03(金) 12:57:30.75
>>497
というか、自分とこで喧嘩に何人出せるか見当もついてない首長じゃ、魏朝に官とは呼んでもらえまい

499日本@名無史さん2021/12/03(金) 13:53:02.37
5万戸7万戸なんて嘘に決まってんじゃん
おそらく人口は戸数の10倍くらいじゃないか

500日本@名無史さん2021/12/03(金) 13:57:38.73
>>499
言ってることがメチャクチャでは?

501日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:01:31.19
>>499
脳ミソの方もメチャクチャでは?

502日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:03:50.51
>>500
>>501
まさか俺の事を言ってるのか?

503日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:09:35.70
>>502
めっそうもない、決して貴方のことなど・・、

504日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:17:00.65
>>502
あなたのことを言っている

505日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:23:43.16
>>504
吉野ヶ里遺跡には1200人程住んでたであろうと言われてるから120戸
なかなか良い線じゃないか

506日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:27:48.62
吉野ヶ里の外郭内に1,200人、集落全体では5,400人
卑弥呼に仕えた奴婢は1,000人だから、守衛兵が200人とすれば、ピッタリw

507日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:52:33.16
吉野ヶ里一帯は律令制の三根郡(彌根郡)だった。
だから倭人伝の「不彌国」に相当し「有千余家」の5,400人。

508日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:56:21.35
>>480
客観的に見たら、纏向を王都とするには材料不足である事を理解できて無い。畿内説がゴネまくってるだけ。

509日本@名無史さん2021/12/03(金) 14:57:32.19
>>465
お前が頭が悪いのはわかった

510日本@名無史さん2021/12/03(金) 15:01:28.43
>>494
約一名 全キウス秒

511日本@名無史さん2021/12/03(金) 15:02:34.34
>>508
>客観的に見たら、纏向を王都とするには材料不足である事を理解できて無い。畿内説がゴネまくってるだけ。

材料不足であるという客観的な根拠は?

512日本@名無史さん2021/12/03(金) 15:33:26.96
楼観なし城柵なし、ただの板塀

513日本@名無史さん2021/12/03(金) 15:59:05.01
吉野ヶ里はツングース地域が起源の空環壕に外土塁

514日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:03:38.11
ガチの版築じゃないのか

515日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:04:19.21
「庄・蔵本遺跡」にも2重の濠と柵列をめぐらしている。 井の中の蛙大海を知らず。   @阿波

516日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:11:52.66
>>512
要するに畿内説は、バカ発見機だなw

517日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:18:17.57
>>509
>お前が頭が悪いのはわかった

なにも反論できないで罵るだけなのは
頭が弱いからだよ

518日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:19:59.56
>>516
で?
材料不足であるという客観的な根拠は?

519日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:25:02.75
>>516
オレオレ詐欺のネズミ講だよ

520日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:25:50.61
>>519
なにも反論できないで罵るだけなのは
頭が弱いからだよ

521日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:26:59.31
ネズミ講の発祥は熊本

522日本@名無史さん2021/12/03(金) 16:27:56.24
>>127
>>512
そうかもしれません

523日本@名無史さん2021/12/03(金) 17:26:04.26
倭人伝の行程しか根拠が無かったのに、その行程で破綻してるのが九州説

524日本@名無史さん2021/12/03(金) 17:36:17.87
>>516
>要するに畿内説は、バカ発見機だなw

発見される九州説

525日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:03:34.89
>>523
卑弥呼の女王國(≒倭國)の位置に関する最も重要な情報は、
倭人伝の行程であったのに、
その行程での「南≠東」などの史料事実や史料実態で破綻してるのが、
大和説

526日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:07:33.94
>>524
「畿内」や「邪馬台国」や「南≠東」や「正北抵新羅の隠蔽」や「冢≠前方後円墳」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しが発見される、大和説

527日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:11:40.24
そういうことだ、
「南」という字が「東」に見え、「東南」という字が「北東」に見える時点で、
認知症が確定、運転免許証の返納も決定・・。

528日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:28:00.78
「南」は「南」、「東南」は「東南」と言えるのは、「阿波」だけ。   @阿波

529日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:39:12.18
>>511
ー本遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。
ー3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達するが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
ー半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されていない
ー生活感が無い。住居跡も少なく、他の遺跡と比べ都市と言うには時期尚早
ーその他諸々

530日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:45:51.89
>>529
そんなニセ情報で通説に抵抗って、九州説ダメすぎない?

531日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:47:02.61
>>529
>このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。

「生活感が無い。住居跡も少なく」 と言いながら、「地方王権」がこの纒向地域にあったと考える根拠は?   @阿波 

532日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:47:07.96
いつもながら阿波先生は、
たいへんご立派な学者であり、また紳士でもあれせられますねえ。

533日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:59:17.63
>>529
>本遺跡からは卑弥呼が魏などとの大陸と交流していたことを証明する漢鏡、後漢鏡や刀剣類は出土していない。また、魏志倭人伝に記された鉄鏃や絹も出土していない。
3世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達するが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されていない
生活感が無い。住居跡も少なく、他の遺跡と比べ都市と言うには時期尚早
その他諸々

成程。

534日本@名無史さん2021/12/03(金) 18:59:32.06
>>524
バカ発見!w

535日本@名無史さん2021/12/03(金) 19:31:22.16
>>534
罵しるだけなの?
九州説ダメダメだね

536日本@名無史さん2021/12/03(金) 21:06:26.00
>>530
史料事実や史料実態での反論をしないで、
そんな口先での誤魔化しだけのニセ情報で九州説に抵抗って、
大和説、ダメすぎない?

537日本@名無史さん2021/12/03(金) 21:07:45.25
>>536
ほらまたオウム返し

538日本@名無史さん2021/12/03(金) 21:10:10.20
>>537
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の指摘に、罵しるだけなの?
大和説ダメダメだね

539日本@名無史さん2021/12/03(金) 21:50:20.11
>>526

>「邪馬台国」

「これまで30年ほど、邪馬台国を含め古代史関係の検討を続けてきた」
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm

考古に関しては素人である宝賀も研究したのは「邪馬台国」

540日本@名無史さん2021/12/03(金) 22:27:24.54
>>520
自己紹介おつ

541日本@名無史さん2021/12/03(金) 22:37:09.44
>>540
あなた、小学生?
九州説って何も反論できないの?

542日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:08:19.95
>>530
無い物ねだりの畿内説

543日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:17:44.26
>>533
確かに、俺も成る程だ。
喚き散らかす奴を除き
畿内説の反論を待つ。

544日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:29:04.61
張政は2往復あるいは1往復する期間伊都国に滞在した
これを否定する文献や遺構はない

水行二十日+水行十日陸行一月
この期間に実際に張政は九州北部辺りにいた ゆうべはおたのしみでしたね
>婦人は淫せず、妬忌せず

>塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、
>檄を為(つく)りて之を告諭す。

>政等は檄を以って壱与に告諭す。

>壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。

九州はこれを否定できてない
これ九州が絶対に否定しないとダメなやつだからな
じゃないと負ける
だって邪馬台国は伊都国から近いんだろ 朝倉山門

545日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:32:25.07
九州はアホみたいに畿内の決定的証拠がないことを責めて
アホみたいに勝った気にでいるけど
おまえら九州には候補となる遺構すらないからな
畿内はあるぞ纏向

546日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:34:35.11
>>543

纒向遺跡 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事には複数の問題があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

アカデミック畿内説は問題がある情報源には関与しない

547日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:43:11.50
ていうか九州の説は魏の使者張政らが日が昇って沈んだ回数の日数を
数えられない幼稚園児じゃないと成立しないアホ論理で成立させてるからな
九州のアホ説は邪馬台国が南ではなく九州北部を1周してまた九州北部に戻るんだろ
それって魏をバカにしているよな

>>533 きみは纏向くに15%も外来土器があることを認めるのか
太っ腹だな 早期纏向では多分10%くらいだぞ
そして3世紀半ばの九州北部においても外来土器は15%もないぞ
九州は遺構的にみて3世紀半ばにおいて
纏向を凌駕するほどの首都的役割を果たしてないことが
遺構からわかってる
外来時がクソ少ない

>租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。
>大倭をして之を監せしむ。

548日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:45:38.03
魏志倭人伝冒頭あたり
>今、使訳通ずる所は三十国。
九州の外来土器の割合の少なさも
邪馬台国ではない根拠のひとつだからな

549日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:53:44.93
3世紀半ばの九州北部に外来土器は10%もないわけで
交流とかない田舎なわけで
一方纏向は1割〜1割5分が外来時の国際都市

3世紀半ばは1割くらいだけど3世紀後半になると15%くらいになるの
東海土器は多く発見されるんだけど
3世紀後期になると吉備の土器が減るの
何があったんだ

550日本@名無史さん2021/12/03(金) 23:58:09.63
纏向移籍の外来系土器の比率
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
面倒だが貼ったぞ

551日本@名無史さん2021/12/04(土) 00:08:13.31
九州の土器が纏向で少ないとかいうけど
九州北部では纏向よりも外来土器が少ない
これで30ヵ国の盟主だったとか疑問しかない

552日本@名無史さん2021/12/04(土) 00:42:46.99
纏向遺跡は庄内式期から外来土器が増える
北部九州は纏向のような一つの大規模遺跡からではなく、博多湾沿岸中東部の各遺跡に
TA〜TB期にかけて伝統的X様式系、吉備系、山陰系、東海系の搬入が増え始め、
TB期に比恵遺跡群で大和型庄内甕を母体とした筑前型庄内甕が成立する

553日本@名無史さん2021/12/04(土) 02:28:02.42
>>551
九州でもどこでも近所で赤土が取れれば日常の土器は現地調達でしょう。

554日本@名無史さん2021/12/04(土) 02:40:45.61
卑彌呼と卑彌弓呼で考察すると、彌呼は役人名の可能性が高い
そうなると考えられるのは巫子(神子)か皇子(御子)である
巫子は太陽神に仕える者であり、皇子は太陽神の子孫を意味する
基本的に巫子は国津神系列であり、皇子は天津神系列である
卑彌呼も卑彌弓呼も国の王とされているので、皇子の可能性が高い

しかし卑彌呼は鬼道を行い、巫子的な存在でもあった
これは恐らく邪馬台国も元々は男性の王がいたとされているので
その王が卑彌呼であり、その妻が鬼道を行う巫子だったと推測する
何らかの理由で王がいなくなり、巫子だった妻が王を受け継いだ

555日本@名無史さん2021/12/04(土) 03:36:44.22
>>545
纏向でいいの?
>>529への反論ねーし

とりあえず、南が東の根拠ある説明が必要だな^_^

556日本@名無史さん2021/12/04(土) 03:39:39.39
>>551
土器なんて倭人伝に出てこない、
倭人伝に出てる物では畿内説は劣る。

557日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:04:46.08
>>541
あなた、オレオレ詐欺師?
大和説者らって、
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」などの、
史料事実や史料実態の指摘に対して、
何も反論できないの?

558日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:30:49.78
>>544
>張政は2往復あるいは1往復する期間伊都国に滞在した これを否定する文献や遺構はない

また、変な精神異常者的な頭の大和説男?。
梯儁等は、確実に邪馬壹國女王之所都に行っており、そのの魏の役人らは侏儒國付近まで行って、
ぞの間の実地の見聞計測を記録した。
また張政らは、確実に、難升米に会って、その後卑弥呼の死を伝えられ、
冢が造られるのを見聞し、更に千人位の死者の出る闘いを知り、
壹與の共立を確認して、帰路についた。

>水行二十日+水行十日陸行一月
この期間に実際に張政は九州北部辺りにいた ゆうべはおたのしみでしたね

有難う。「水行二十日」は倭人からの伝聞情報。
「水行十日陸行一月」は、郡から女王之所都までの魏の役人らの実地での計測記録。

>婦人は淫せず、妬忌せず
>塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、
檄を為(つく)りて之を告諭す。
>政等は檄を以って壱与に告諭す。
>壱与は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。

大和説者はこれを否定できてない
これ大和説者らが、絶対に否定しないとダメなやつだからな じゃないと負ける
だって、伊都国のすぐ東の「大和」町?にも山門があり、
邪馬壹國女王之所都は、伊都国から近い「不彌國のすぐ南」にある事になるんだろ?。

559日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:38:19.02
>>545
大和説者らはアホみたいに「畿内」なんて存在もしなかった文言を使って、
国民を騙すオレオレ詐欺をし、
大和に決定的証拠がないことを隠してアホみたいに勝った気にでいるけど
おまえら大和説は、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しのオレオレ詐欺をして、
大和や纏向には、候補となる遺構すらないからな
九州にはあるぞ、弥生銀座や、大野の安徳台?や、祇園山のように。

560日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:43:44.66
九州説って言ってることが支離滅裂だな
おうむ返しで文章になってないだろ

561日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:43:45.00
>>547
纒向遺跡 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事にも複数の問題があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

九州説は、「畿内」なんて存在もしなかった文言を使用せず、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つく騙しをせず、
アカデミックと偽装する大和説の、問題がある情報源には、
関与しない

562日本@名無史さん2021/12/04(土) 05:58:20.48
>>547
ていうか大和説学者らの説は、
魏の使者張政らが日が昇って沈んだ回数の日数も数えられない、という、
幼稚園児じゃないと成立しない、アホ論理で成立させてるからな
大和説学者らのアホ説は、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を偽造し、
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをして、
「東征毛人五十五國」で征服した東方別種倭種の旧小国の大和までを1周して、
また九州北部に戻るんだろ
それって国民や魏をバカにしているよな
きみは纏向に筑紫の庄内がなく、15%も外来土器しかないことを認めないのか
太っ腹だな 早期纏向でも庄内は3世紀末の石塚からだぞ
そして3世紀半ばの九州北部においても大和などの外来土器は殆どないぞ
大和が、遺構的にみて、3世紀半ばにおいて
筑紫を凌駕するほどの首都的役割を果たしてないことが遺構からわかってる
筑紫の土器がクソ少ない

>租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。
大倭をして之を監せしむ。

賛成してくれて、有難う。

563日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:01:32.78
>>548
魏志倭人伝冒頭あたり「今、使訳通ずる所は三十国」
3世紀前半の大和の「半島土器や外来土器の割合の少なさ」も
邪馬壹國女王之所都ではない根拠のひとつだからな

564日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:10:56.98
>>549
3世紀半ばの大和に外来土器は10%もないわけで
交流とかない田舎なわけで
一方北部九州は、楽浪土器などが沢山出土する国際都市

大和では3世紀半ばは0割くらいだけど、
3世紀末以後になると15%くらいになるらしいの
東海土器は多く発見されるんだけど
4世紀になると吉備の土器が減るの
何があったんだい?。おそらく、
九州倭國の「東征毛人五十五國」の新たな侵入征服と、「市を監督する大倭職」が出来、
征服した毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を生口や守墓人にして巨大な墓を造らせたの。

565日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:14:53.59
>>550
>纏向移籍の外来系土器の比率
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
面倒だが貼ったぞ

有難う。
「東征毛人五十五國」や「地方の市を監督する大倭職」の別種の旧小国の事として、
常識的な事だから、もう読まないけどね。

566日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:23:21.24
>>551
>九州の土器が纏向で少ないとかいうけど

筑紫の土器はほぼ0個だよ。

>九州北部では纏向よりも外来土器が少ない
これで30ヵ国の盟主だったとか疑問しかない

九州倭國は列島盟主であり、九州内で土器も賄え、
大和などの遠距離の倭種扶養國の「市」からの搬入は殆ど要らず、
逆に、武器や鏡などのお宝を、地方の貧乏国の搬出し、勉強させる方であった。

567日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:32:17.57
>>552
>纏向遺跡は庄内式期から外来土器が増える

東征軍が入り、地方の市が出来た3世紀末から以後ね。

>北部九州は纏向のような一つの大規模遺跡からではなく、

いや、福岡平野の弥生銀座が列島最大である。

>博多湾沿岸中東部の各遺跡に
TA〜TB期にかけて伝統的X様式系、吉備系、山陰系、東海系の搬入が増え始め、

「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来た地方の市の大倭職からの上納搬入土器である。

>TB期に比恵遺跡群で大和型庄内甕を母体とした筑前型庄内甕が成立する

大和の庄内は、3世紀末であるから、福岡平野の庄内の筑前型庄内甕の、
「搬入模倣製作」甕である。

568日本@名無史さん2021/12/04(土) 06:39:22.20
>>554
>卑彌呼と卑彌弓呼で考察すると、彌呼は役人名の可能性が高い
そうなると考えられるのは巫子(神子)か皇子(御子)である
巫子は太陽神に仕える者であり、皇子は太陽神の子孫を意味する
基本的に巫子は国津神系列であり、皇子は天津神系列である
卑彌呼も卑彌弓呼も国の王とされているので、皇子の可能性が高い
しかし卑彌呼は鬼道を行い、巫子的な存在でもあった
これは恐らく邪馬台国も元々は男性の王がいたとされているので
その王が卑彌呼であり、その妻が鬼道を行う巫子だったと推測する
何らかの理由で王がいなくなり、巫子だった妻が王を受け継いだ

一応可能性ならあり得る話だが、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言を使ったから、
その時点で信頼性が殆どなくなり、
また「卑」が、中国にも存在しした「姓」にあった、という事であり、
「卑氏」であった事を示す可能性もある。

569日本@名無史さん2021/12/04(土) 08:31:25.58
纏向で外来土器が増えるのは260年以降からで4世紀前半まで続く
箸墓の建造を他国が協力したことで
他国人はヤマトの豊かさを知って交易相手にいいと思ったのかも

箸墓の特殊器台は吉備製で
おそらく吉備の人はヤマトに届けに来ていて
出雲の職人は葺石落ちないようにする施工指導
東海や他国は労働力を提供したかもしれない

箸墓建造に協力した他国の人は自国に帰ってから
ヤマトの豊かさを自国の人に教えて
商人たちがヤマトに交易に来たのかも

前方後円墳がヤマト以外の各地でも
多く作られはじめた3世紀後半からは
わかりやすく前方後円墳があれば仲間の国で
お互い安心して交易ができて
他国相手の越境交易が広まったんじゃないか
経済的利益や他国の特産品を得るための緩やかな結びつきが
大和王権の基盤のひとつになったのかもしれない

>今、使訳通ずる所は三十国。

>始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。
>居する所は絶島、方四百余里ばかり。
>土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。
>良田無く、海物を食し自活す。
>船に乗り、南北に市糴す。

>租賦を収め、邸閣有り。
>国国は市有りて、有無を交易す。
>大倭をして之を監せしむ。

570日本@名無史さん2021/12/04(土) 08:42:29.69
豊かさって、何が?

住居の痕跡すらない豊かさ?w

571日本@名無史さん2021/12/04(土) 08:46:23.39
>>569
それの説明、「倭人(阿波勢力)」の各地進出  で即決。   @阿波

572日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:03:09.69
>>556

倭人伝に記載の倭人の風習である卜骨は
九州では弥生後期以降の2カ所だけしか出ていない
本州では山陰、大和では弥生前期から、
弥生中期に関東まで拡がっている

573日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:03:58.89
>>560
あんた
罵声だけじゃん。
指摘しないで卑怯だよ。
とにかくさー、皆んなが納得する南→東から解説したら。
誤認や誤写が通るなら各節都合の悪い倭人伝を曲解しちゃうよ

574日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:06:18.91
魏使が確実に経由した壱岐から大量に出土しているからそれでOK

生まれて初めて倭人領に到着した魏使が、占い婆さんに卜骨してもらって、
その記録を日誌に残した。
旅行の最初の頃って興奮してるから事細かに記録するっしょ。

575日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:06:21.27
>>567

加古川の反日有害鮮人のデマ

576日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:11:36.00
>>572
それさー
北部九州は倭国でないとでも言うのかい。倭人伝を読み直した方が良いよ!

577日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:12:10.77
>>569
>纏向で外来土器が増えるのは260年以降からで4世紀前半まで続く・・・・

ちょっと違う。
九州倭國の3世紀前半の庄内などが、
東征毛人五十五國群や、地方の市を監督する大倭職に拠って、
纏向で外来土器が増えるのは3隻域末の石塚以降から、著明になった。

578日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:23:37.64
>>576

倭人の風習が無い九州島で、筑前筑後北部が畿内の供献土器を模倣制作しているので
博多湾沿岸を中心とした筑前が倭国=畿内を中心とした相互利益協力体制ネットワークに参加している

579日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:23:47.17
>>576
うんうん
狗邪韓国まで七千里で倭に至ってるもんね

580日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:26:31.29
>>578
卜骨は
>>574で論破されている。

土器の流れは労働者の流れ。

581日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:29:06.97
>>578に追加

そして筑前型庄内甕が成立した博多で
TB期新相(3世紀前半)に大和の古墳と同形の那珂八幡古墳が築造される

582日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:31:38.38
>>580

壱岐の卜骨は弥生中期

583日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:32:37.09
>>581
連れてきた労働者が余ったので、作らせた。

584日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:37:06.39
>>582
壱岐には卑弥呼時代までに卜骨が普及していた。

纏向の卜骨は卑弥呼時代より後。

585日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:40:35.39
>>583

筑前型庄内甕は在地の制作者の模倣制作

586日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:42:21.21
>>585
在地の制作者=過去に連れてきた労働者の末裔

587日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:42:48.06
>>584

大和の卜骨は弥生前期、中期、後期、古墳初期
弥生中期には関東まで拡がっている

588日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:43:02.53
生口

どこからやってきたのか

生口

後漢や魏に献上されたよ

生口

589日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:44:04.33
>>587
>>574
で既に論破されている。

590日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:45:04.49
>>586

北部九州で有力だった甕棺造墓集団はど没落した

591日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:45:09.25
>>580
>卜骨は
>>574で論破されている。

それは妄想
離島壱岐にあったが倭国の都を含め本土にないものを
倭国の習俗として報告する役人は無能か詐欺師

592日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:45:57.18
>>589

壱岐の卜骨は弥生中期

593日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:46:39.59
>>590
他地域に逃亡することなく消滅しているので、
北部九州内での社会変革であったことが確実。

594日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:48:02.86
>>591
陳寿が魏使の日誌を見て、
壱岐での卜骨が、壱岐だけのものなのか、
九州倭国本土でもあるのかどうか、
は判別がつかない。

595日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:49:38.53
>>592
3世紀までに壱岐に卜骨が普及していた。
魏使は特別なお客さんなので観光サービスで行った。

596日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:51:12.75
電化製品のない弥生時代にやってほしい雑用

水汲み
掃除
洗濯
排泄物の処理
土器の作成
荷物の揚げ降ろし
農作業
薪割り
土木工事

597日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:52:19.52
>>584
>纏向の卜骨は卑弥呼時代より後。

現物が布留0だよ。だから死去時点から直後
畿内にはもっと前からあったんだから卑弥呼の時代にもあったことになる

598日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:53:59.98
>>597
それでいいなら、
「壱岐から日本全国」にもっと前からあったんだから
卑弥呼の時代の九州にもあったことになる

599日本@名無史さん2021/12/04(土) 09:59:56.60
>>593

屈葬から伸展葬に変わるので有力民族が変わっている
甕棺墓は全羅南道では6世紀まで存続する

600日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:01:45.58
>>598

大和の卜骨は弥生前期、中期、後期、古墳初期

601日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:07:13.51
>>576
>北部九州は倭国でないとでも言うのかい。

少なくとも、「卑彌呼」の時代は倭国でない。

「卑彌呼」に時代の倭の範囲は、せいぜい阿波+讃岐+南淡路ぐらいだろう。   @阿波

602日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:10:09.97
北部九州は庭石は要らない

603日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:11:47.41
>>578
>博多湾沿岸を中心とした筑前が倭国=畿内を中心とした相互利益協力体制ネットワーク

「卑彌呼」の時代に、そんな相互利益協力体制ネットワークが有ったと思うお花畑。  呆れてものが言えん。   @阿波

604日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:13:44.96
>>586
>在地の制作者=過去に連れてきた労働者の末裔

違う!  九州へ進出した「倭人(阿波勢力)」の製作。   @阿波

605日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:16:16.16
>>603

ど秘境人の世界観

606日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:17:54.41
>>605
「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」

南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、

一方、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。

また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。   

南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。   @阿波

607日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:18:55.01
パラダイスに罪人は流さない

608日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:23:27.93
>>607
その通り!  ここは「常世の国」。  流刑地に成り得ない。  わははははは   @阿波

609日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:26:05.65
希少価値の高い鉱物である辰砂が採れたのは狗奴國で
女王国の産物は庭石だったというのが阿波作り話

610日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:27:23.20
だが阿波は流刑地

611日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:31:58.74
>>609
>希少価値の高い鉱物である辰砂が採れたのは狗奴國で

その通り!  「卑彌呼」の時代の一時期、「狗奴国」と不仲だった。

しかし、「壹與」の時代となり、また元の鞘に納まった。  それだけのこと。   @阿波

612日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:34:37.12
>>610
>だが阿波は流刑地

というよりも、京を追われた者の避難地だな。  流刑地として近すぎ。 生活しやすぎ。  わははははは   @阿波

613日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:44:54.90
はい、もう「阿波」で決まりなんだから、不毛の論争、打ち方止め。 でどうだ?  アホばかりだから無理だろうな。  わははははは   @阿波

614日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:50:04.09
>>594
>陳寿が魏使の日誌を見て、
>壱岐での卜骨が、壱岐だけのものなのか、
>九州倭国本土でもあるのかどうか、
>は判別がつかない。

つまり陳寿が白雉だと言いたいんですか

615日本@名無史さん2021/12/04(土) 10:58:39.09
>>611

だから北部九州は庭石国は要らない

616日本@名無史さん2021/12/04(土) 11:07:36.91
>>612

流刑地というのは人が極端に少ないところ
そうしないと多くの人が迷惑するから

こういう罪人↓

https://jcc.jp/news/17724614/

617日本@名無史さん2021/12/04(土) 11:43:22.65
>>578
3世紀末頃まで、倭人の風習が殆どなかった大和でも、
3世紀末頃から、筑前筑後北部の3世紀前半の供献土器を模倣制作しているので
博多湾沿岸を中心とした筑紫倭國の「東征毛人五十五國」で出来た別種倭種の旧小国の、
「地方の市を監督する大倭職」を中心とした、
相互利益協力体制ネットワークに参加した。

618日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:02:12.03
>>617
どうして九州説は明らかなニセ情報を流すの?
公序良俗に反するね

619日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:03:25.82
>>581
そして3世紀前半の筑前型庄内甕を模倣した大和で
筑紫の那珂八幡などの進化型の前方後円墳の3世紀末の石塚などから、
庄内甕が始まった。

620日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:06:28.85
>>582
>壱岐の卜骨は弥生中期

魏の役人らが一大國のト骨を目撃したのは、3世紀前半の後半頃。

621日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:09:01.42
>>585
大和の庄内甕は、在地の制作者らの、3世紀末の(庄内1の石塚などでの)模倣制作

622日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:12:18.64
>>587
>大和の卜骨は弥生前期、中期、後期、古墳初期
弥生中期には関東まで拡がっている

「ト骨」は、元々、縄文からの「国引き神話があった出雲」系の習俗であったから。

623日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:15:26.94
>>590
>北部九州で有力だった甕棺造墓集団はど没落した

没落したのではなく、
首長者らを中心として、箱式石棺や竪穴式石室が広まったから。

624日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:21:32.92
>>591
>それは妄想
離島壱岐にあったが倭国の都を含め本土にないものを
倭国の習俗として報告する役人は無能か詐欺師

それは妄想
魏の役人らは、壱岐にもあったが、九州本土からの少し出土していたが、
本土では、卑弥呼の「鬼道」があったため、一般庶民でもト骨は減った。
倭国の習俗として報告した役人は、正確で優秀であった。

625日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:28:09.05
>>619-624

この如何なる権力にも従わないスローガンを掲げた会の末端構成員の反日有害鮮人は
デマと竹島は韓国に統治権があると言い張っている

626日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:30:04.89
>>598
>それでいいなら、
「壱岐から日本全国」にもっと前からあったんだから
卑弥呼の時代の九州にもあったことになる

「ト骨」習俗は、縄文期からの出雲王朝が中心の習俗。

627日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:38:48.13
>>609
>希少価値の高い鉱物である辰砂が採れたのは狗奴國で

その通り!  「卑彌呼」の時代の一時期、「狗奴国」と不仲だった。

しかし、「壹與」の時代となり、また元の鞘に納まった。  それだけのこと。   @阿波

628日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:39:03.17
弥生時代前期に出雲、大和、伊予で始まったト骨は古墳時代には東北まで拡がり
記紀には天神が占った太占(ふとまに)と書かれる
古墳時代後期には亀甲が使われるようになり平安時代まで継続する

629日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:42:29.17
>>627

卑弥呼の時代に辰砂が採れない庭石国は北部九州にとって不要など秘境国

630日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:47:27.64
北部九州の寒村に、庭石庭園などおこがましいわ。  わははははは   @阿波

631日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:51:23.78
日本中が米の収穫で喜んでいる時が
阿波人にとって一年で一番辛い季節であった
だからこのような人格になってしまった

632日本@名無史さん2021/12/04(土) 12:58:29.98
>>620
>魏の役人らが一大國のト骨を目撃したのは、3世紀前半の後半頃。

弥生中期のものしか見つかってないんだけどね

633日本@名無史さん2021/12/04(土) 13:06:47.29
>>631
お前、まだ米米言ってる知恵遅れか?   @阿波

634日本@名無史さん2021/12/04(土) 13:09:35.34
>>632
畿内説はもはやそんなとこにイチャモンつけるしかなくなったのだなぁ

635日本@名無史さん2021/12/04(土) 13:31:48.38
>>618
どうして、スレ主や東大理系博士号自称男やオレオレ詐欺の大和説者らは、
明らかなニセ情報を流すの?
公序良俗に反するね

636日本@名無史さん2021/12/04(土) 13:59:00.07
>>624
九州説のいうことは、どうしてそんなに倭人伝や考古資料と違うんだい?

637日本@名無史さん2021/12/04(土) 14:00:33.93
>>634
>畿内説はもはやそんなとこにイチャモンつけるしかなくなったのだなぁ

九州説のいうことが、ほんとうの歴史と違うからだろ?

638日本@名無史さん2021/12/04(土) 16:02:03.72
九州説でいう卑弥呼の都がどこかは言う人の数くらいあるようだが、魏の使者が壱岐で卜占の風習を見て倭国の都じゃ全く見かけなかったんなら、倭人伝のような書き方にはならない。
一支国の風習のように書いて、倭人全体の習俗みたいには書かない。
しかも壱岐の卜骨は弥生中期のものだ

しかし畿内説の場合、三世紀の卜骨が吉備でも因幡でも大和でも見つかっている
畿内説の圧倒的有利でしょ

639日本@名無史さん2021/12/04(土) 16:03:31.30
>>636>>637
大和説者らのいうことは、どうしてそんなに倭人伝や考古資料の、
史料事実や史料実態と違うんだい?
大和説のいうことが、ほんとうの歴史と違うからだろ?

640日本@名無史さん2021/12/04(土) 16:13:14.81
卜骨は後漢書にも記載されてるから、
出典は魏代じゃなくて、後漢時代の古代史料だろ。
壱岐でいい。

641日本@名無史さん2021/12/04(土) 16:43:29.91
>>579
違うよ
朝鮮半島南部は倭だから

642日本@名無史さん2021/12/04(土) 16:54:00.72
またまた、畿内説の馬鹿が恥をかいたなWw
卜骨 で、
北部九州説をギャフンといわせようとしたが北部九州は倭国に属するから撤退だねWw

まぁ伊都國等々が北部九州以外なら良いが、そんな事言う畿内説の学者はいない。
スレ主はじめ、ここに来る畿内説の輩は馬鹿ばっかしWw

643日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:00:38.64
>>642
>北部九州は倭国に属するから

少なくとも、「卑彌呼」の時代は倭国でない。

「卑彌呼」に時代の倭の範囲は、せいぜい阿波+讃岐+南淡路ぐらいだろう。   @阿波

644日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:06:40.90
千葉にも安房ってあるけどあっちはどうなん

645日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:11:14.14
畿内説

 卜骨で負けて

  アワにタゲ逸らし

646日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:14:10.58
>>644
「倭人(阿波勢力)」の進出痕跡。  印旛沼もおなじ。   @阿波

647日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:24:43.46
>>637
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の大和説のいうことが、
ほんとうの歴史と違うからだろ?

648日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:30:07.49
>>645
>卜骨で負けて

王都たる弥生集落郡で、共倒れじゃないか。  わははははは   @阿波

649日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:38:35.71
邪馬台国の全貌が分からないのに遺跡で分かる訳ないじゃん
一体何を基準に遺跡調査して断言してるんだ?
もしかしてそこだけは歴史書を参考とか?

650日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:44:08.58
>>638
>九州説でいう卑弥呼の都がどこかは言う人の数くらいあるようだが、
魏の使者が壱岐で卜占の風習を見て倭国の都じゃ全く見かけなかったんなら、
倭人伝のような書き方にはならない。
一支国の風習のように書いて、倭人全体の習俗みたいには書かない。

いや、魏の役人らは、「倭國の都」でト骨を見た、とは書いていない。
当然、実地の見聞計測の記録の全体の時にト骨を見た事になり、
海峡から南四国の足摺付近までのどこで見たのであっても、構わないもの。

>しかも壱岐の卜骨は弥生中期のものだ

一大國は(「戸」表示ではなく)「家」表示であるから、
魏への納税や兵役の義務もなく、女王國内でも「半独立的な国」であり、
「ト骨」習俗が残っていた可能性は幾らでもあるし、
勿論、嘘つき騙しの大和説学者らの発掘や年代比定そのものが、信頼性がない。

>しかし畿内説の場合、三世紀の卜骨が吉備でも因幡でも大和でも見つかっている
畿内説の圧倒的有利でしょ

畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
大和全体が、九州倭國の「東征毛人五十五國」で支配化になったのは、3世紀後半半ば過ぎ頃であり、
それまでは、ト骨文化の出雲系銅鐸祭祀國や毛人の時代であったのであり、
大和説の根拠になっていない。

651日本@名無史さん2021/12/04(土) 17:48:19.04
>一大國は(「戸」表示ではなく)「家」表示であるから、
>魏への納税や兵役の義務もなく、女王國内でも「半独立的な国」であり、
>「ト骨」習俗が残っていた可能性は幾らでもあるし、

さすがザラコクさん
知的素養の高さがハンパなくて、畿内説は赤っ恥

652日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:18:50.76
>>643
ダメ、ダメ、
伊都國は倭国だからね。
倭人伝の倭国に属する国々がすべて四国なら良いけどね

653日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:18:51.87
>>651
有難う御座います。

654日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:24:58.66
畿内説は以下の点を説明するように
九州説では説明できる

・邪馬台国時代に朝鮮半島南岸、対馬、壱岐を
 畿内が支配してた証拠
・畿内邪馬台国が北九州を抑えていたにも関わらず、
 九州に上陸してから陸行する必要がある理由
・九州に上陸したら急に方角がいい加減になる理由
・「帯方郡から邪馬台国までの1万2千里中、
 九州につくまで1万里」と畿内まで
 全然足りない距離感を中国側が持ってる理由
・女王国から東に渡海して倭種がいる所がなんなのか
・畿内政権が3-4世紀にかけて順調に発展してるのに
 空白の4世紀が生まれる理由
・ヤマト政権の歴史観では「3世紀に中国との交流がない」と
 なってる理由

655日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:34:01.10
以下を考えると日本書記は100-200年は
古く誇張する傾向がある

200年 神功皇后が新羅を征服した(日本書記)
399年 新羅が倭に征服された(好太王碑)

264年 百済の枕流王が即位(日本書記)
384年 百済の枕流王が即位(三国史記)

306年 日本が呉に行こうとしたが行き方が分からず
     高麗に道案内してもらい呉に行った(日本書記)
413年 高句麗・倭国が中国に貢物を献ずる(晋書安帝紀)

656日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:35:24.44
>>652
>伊都國は倭国だからね。

伊都国は、倭国(阿波)の出先機関。 倭国ではない。   @阿波

657日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:39:47.79
九州には王都の候補地が沢山あるのはね
裏返せば邪馬臺國が九州にあった証拠にもなるのだ。
畿内にはチンケな遺跡しか無いから、纏向一本釣り。
その纏向も都市の体を成していない。残念です。

658日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:40:51.09
>>656
国だよ国

659日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:43:30.24
>>658
中国側から見たらね。  倭国(阿波)にとって、伊都国は倭国(阿波)の出先機関。 倭国ではない。   @阿波

660日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:45:28.44
>>656
阿波さんよ
倭国が四国限定なんて言う遊びはやめたら
あなたらしくも無い

661日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:51:36.16
重要な点は「日本書記も倭人伝同様、数字を誇張するが
完全なデタラメではない」ということ

日本書記は100-200年は古く誇張する傾向があるが
海外史料にも書かれてる以上デタラメではない

そうなら日本書記の「文字に関する初めての記述」
「中国に関する初めての記述」も100-200年新しく見るべきだ

そうなると初めて文字を運用したぽい記述は
200年の「神功皇后が新羅の文書を回収した」で、
早く見ても300年頃だし、初めて中国に行った記述も
306年なので、やはり早く見ても400年頃だろう

「ヤマト政権は邪馬台国時代に文字も運用できないし
中国に行ったこともない」ということになる

662日本@名無史さん2021/12/04(土) 18:56:50.91
>>640

後漢書は倭國大亂後に卑彌呼が共立された倭国を書いている

663日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:02:19.35
>>642

伊都國には倭の女王とは別の王が居り女王國に従属している
郡より萬二千餘里の女王國には至っていない

664日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:04:29.86
>>651

つまりお前も竹島どろぼう反日有害穢れ鮮人

665日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:07:09.38
>>657

学術的に九州には王都の候補地は無いけれども
ど素人お爺さんたちが一人一作り話をしている

666日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:07:30.69
>>660
>倭国が四国限定なんて言う遊びはやめたら

そんなことを言った覚えはない。

「卑彌呼」に時代の倭の範囲は、せいぜい阿波+讃岐+南淡路ぐらいだろう。   @阿波  

667日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:09:40.35
>>660
>倭国が四国限定なんて言う遊びはやめたら

そんなことを言った覚えはない。

「卑彌呼」時代の倭の範囲は、せいぜい阿波+讃岐+南淡路ぐらいだろう。   

「卑彌呼」時代以降、倭国(阿波)の範囲はどんどん広がっていく。   @阿波  

668日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:16:24.59
博多湾貿易が台頭するのが3世紀のことなのに
1世紀に奴国が光武帝から金印を貰うことを
畿内説はどう説明するのか?

博多湾貿易が発達せず、
交易拠点として価値が
低い時代の博多が奴国だろうか?

しかも倭人伝では奴国から水行しない以上、
川沿い・海沿いではあるまい

素直に九州北岸から南東に移動した
内陸の国と見るべきで、博多ではないだろう

669日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:24:09.14
>>668
>内陸の国と見るべきで、博多ではないだろう

その通り!  伊都国は、内陸の直方辺り。   @阿波

670日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:25:23.09
>>668

博多湾貿易というのは博多が貿易拠点
その前は原の辻貿易と呼ばれる

671日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:28:59.82
>>668
委奴国な
倭国の事だよ

672日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:29:03.02
>>642
何も反論しないて論争に勝ったような妄想してますね
いつもの思い込みの強いひとかな?

九州説はおかしい人が多い

673日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:30:49.69
>>668
もしかして博多湾貿易の意味がまったくわかっていないのか?
妄想は脳が退化するぞ

674日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:32:20.98
論争が目的じゃなくて真実を知りたくて見に来てるの。
ケンカ目的じゃないのよあなたと違って。

675日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:32:28.58
>>671

倭奴国は卑彌呼が共立された倭国の極南界にあった一国

676日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:35:40.35
>>665
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論では、
大和には、倭國王都の候補地は無いけれど、
極右街宣車のヤクザたちのような大和説者らが、
一人一オレオレ詐欺の作り話をしている

677日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:36:35.07
>>660
>倭国が四国限定なんて言う遊びはやめたら

そんなことを言った覚えはない。

「卑彌呼」時代の倭の範囲は、せいぜい阿波+讃岐+南淡路ぐらいだろう。   

「卑彌呼」時代以降、倭国(阿波)の範囲はどんどん広がっていく。   @阿波  

678日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:38:17.76
2世紀後半の平原遺跡を最後に王にふさわしい墓地が九州北部にはない
伊都国は伊都国、奴国は奴国なので邪馬台国ではない

これで詰むのよ九州北部

679日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:44:06.88
3世紀中旬の平原遺跡の女王墓が燦然と輝く伊都国

男王の一族墓が燦然と輝く大倭国

伊都国はワシントン
奴国はニューヨーク
なので
北部九州は邪馬台国なのよ九州北部

680日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:44:49.21
でも同じこと2回書いてシレッとしてたり平気でするからな奴等
それも道案内記事の中で

681日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:45:25.62
>>676

こいつは一人一作り話をしている九州の夢見るど素人お爺さんたちではなくて、
竹島は韓国に統治権が在ると言い張っている加古川の反日有害穢れ鮮人

682日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:46:25.08
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

683日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:47:30.02
陳寿「君の頭の中ではそう思っておけばいいじゃん 頭の中ではな」

684日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:49:59.45
>>679

韓の「立大木」祭祀をしている平原1号墓は200年頃
伊都国王は女王国に従属している

685日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:50:38.97
環濠集落防衛ラインの吉野ヶ里他は女王が住むところではない
筑紫平野の主な環濠集落
http://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b04chikushi_kangou/photo/kangou_bunpu.jpg

南に狗奴国があって攻めてくる
この防衛ラインから素人がみても守ろうとしているには
背振産地よりも北にある

そこにあるのは伊都国と奴国と不弥国だが
これらは邪馬台国ではない

>その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。

>倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素より和せず

686日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:52:45.53
>>666
「「博多湾貿易」の成立と解体・再論」によると
弥生時代終末期=邪馬台国時代は
瀬戸内貿易が未発達らしい

同論文によると邪馬台国時代に
楽浪土器・三韓土器などの海外土器が
瀬戸内には少なく、壱岐・糸島・博多に集中してる

瀬戸内貿易が未発達で畿内勢・四国勢が
山陰経由で北九州・大陸にアクセスしていては
影響力は限定的だろう

日本書記で古代出雲が
ヤマト政権の脅威のように描かれてるのも
瀬戸内航路が未発達だった時代の記憶だろう

687日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:56:58.16
吉野ヶ里の墓は紀元前で九州が荒れてたとき
首ない被葬者や矢が骨に刺さったままの被葬者
そして吉野ヶ里に3世紀の墓は無い

688日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:57:12.56
>>686
>日本書記で古代出雲が
>ヤマト政権の脅威のように描かれてるのも

それは、古代出雲が「狗奴国」だったから。   @阿波

689日本@名無史さん2021/12/04(土) 19:58:48.18
>>686

吉備型甕は畿内、瀬戸内、博多湾沿岸で出ている

690日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:00:46.79
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

691日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:02:21.09
>>689
瀬戸内航路によらず、四国の「阿波」から伝播したから。   @阿波

692日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:05:42.84
1世紀になって吉野ヶ里は放棄されて
3世紀にまた再開発されて環濠集落になって
3世紀の墓はない

>その国、本は亦、男子を以って王と為す。
>住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、
>乃ち一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰う。
>鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。
>夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。
>王と為りてより以来、見有る者少なし。
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。
>ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。
>宮室、楼観は城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。

吉野ヶ里に楼観や城柵はあるが
二階建ての建物を宮室としているのは気に入らない
あれは監視のための大きな高楼で宮殿ではないと考えてる
中央の柱をよけて4つに分けると狭いし
□□
□□
監視のために女王の自室のそばで兵を置くとは考えにくい
>ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。

693日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:07:55.03
そだね
吉野ヶ里は一地方の城であって、
首都は伊都だからね

694日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:09:31.09
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

695日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:10:25.85
吉野ヶ里の自分が宮室じゃないと思う復元建物
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚
監視のためにあるとしか思えない
壁一枚向こうに卑弥呼がいる状態で兵士を立たせる状況は
魏志倭人伝に合わない

>王と為りてより以来、見有る者少なし。
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。
>ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。

696日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:11:40.03
そだね
吉野ヶ里は一地方の城であって、
首都は伊都だからね

697日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:15:48.96
TB期前後に中西部瀬戸内系製塩土器が海の中道遺跡に伝えられ
これ以降博多湾岸の土器製塩の中心地となる
UA期前後より今宿、今山遺跡でも土器製塩が開始される

698日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:15:49.15
伊都国や奴国にはそれなりの遺跡がある
径百余歩の墓もある 福岡市博多区那珂八幡古墳(前方後円墳)
ただそこは伊都国であり奴国なので邪馬台国ではない

699日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:16:47.71
里程と日程は並列だから、
伊都国や奴国が邪馬台国である

700日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:17:15.64
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

701日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:17:39.64
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

702日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:18:17.24
伊都国、奴国、邪馬台国は官名が違う

703日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:26:13.59
福岡市早良区の西新町式土器と大阪の庄内式土器が
那珂八幡古墳の周濠で一緒にでてる

福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
https://mainichi.jp/articles/20190303/ddp/014/040/012000c
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。

704日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:27:37.02
>>702
地方自治体と中央政府だからね〜

705日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:32:27.57
>>703
やっぱり大阪だったのか

706日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:34:23.75
第何派の東征だったのだろうかな?

707日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:38:37.51
>>678
>2世紀後半の平原遺跡を最後に王にふさわしい墓地が九州北部にはない

平原1号は、玉と鏡の女王である壹與にピッタリであり、3世紀後半半ば前の墓であり、
またその後3世紀後半半ば過ぎに那珂八幡などの前方後円墳時代があり、
その後、倭國王地は糸島地域に移って、一基山銚子塚や端山や築山などの王墓時代があり、
聖徳太子伝暦に拠れば、
317年頃に「こうやの宮」や久留米付近の邪馬臺に遷宮していた事になる。

>伊都国は伊都国、奴国は奴国なので邪馬台国ではない

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
邪馬壹國は、糸島地域や久留米付近に王都を移した後には、
女王之所都の国ではなくなって、
「「倭國の中心地域という実態に変化した、という事になる。



これで詰むのよ九州北部

708日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:39:18.16
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

709日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:39:30.68
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

710日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:42:05.58
>>663
イミフ

711日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:42:06.66
PCの調子が悪かったので訂正
>>678
>2世紀後半の平原遺跡を最後に王にふさわしい墓地が九州北部にはない

平原1号は、玉と鏡の女王である壹與にピッタリであり、3世紀後半半ば前の墓であり、
またその後3世紀後半半ば過ぎに那珂八幡などの前方後円墳時代があり、
その後、倭國王地は糸島地域に移って、一基山銚子塚や端山や築山などの王墓時代があり、
聖徳太子伝暦に拠れば、
317年頃に「こうやの宮」や久留米付近の邪馬臺に遷宮していた事になる。

>伊都国は伊都国、奴国は奴国なので邪馬台国ではない

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
邪馬壹國は、糸島地域や久留米付近に王都を移した後には、
女王之所都の国ではなくなって、
「倭國の中心地域」という実態に変化した、という事になる。
これで詰むのが、大和説。

712日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:49:12.58
>>687
>吉野ヶ里の墓は紀元前で九州が荒れてたとき
首ない被葬者や矢が骨に刺さったままの被葬者
そして吉野ヶ里に3世紀の墓は無い

吉野ヶ里には前方後方墳と前方後円墳の両方もあり、
いずれも「卑弥呼の冢」の後になるから、3世紀第3四半世紀頃までは存在した遺跡。

713日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:51:13.76
>>686
>弥生時代終末期=邪馬台国時代は
>瀬戸内貿易が未発達らしい

この人は学がないので
瀬戸内貿易という言葉の意味を
根本から取り違えていると思われ

714日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:52:55.91
>>689
>吉備型甕は畿内、瀬戸内、博多湾沿岸で出ている

それなら、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「地方の市を監督する大倭職」の存在で、
説明が付いてしまう。

715日本@名無史さん2021/12/04(土) 20:57:18.48
>>692
>吉野ヶ里に楼観や城柵はあるが
二階建ての建物を宮室としているのは気に入らない
あれは監視のための大きな高楼で宮殿ではないと考えてる
中央の柱をよけて4つに分けると狭いし
□□
□□
監視のために女王の自室のそばで兵を置くとは考えにくい
>ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。

吉野ヶ里には、前方後方墳や前方後円墳があるから、
卑弥呼の冢ではなくもっと後になり、
3世紀後半頃になる。

716日本@名無史さん2021/12/04(土) 21:01:27.27
>>697
>TB期前後に中西部瀬戸内系製塩土器が海の中道遺跡に伝えられ
これ以降博多湾岸の土器製塩の中心地となる
UA期前後より今宿、今山遺跡でも土器製塩が開始される

これも、九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「地方の市を監督する大倭職」の存在で、
説明が付いてしまうね。

717日本@名無史さん2021/12/04(土) 21:03:17.82
>>715
吉野ヶ里遺跡北墳丘墓(BC1)行ったことないの?
出雲大社の平面プランに似た最高祭祀者の居室も展示があったような。

718日本@名無史さん2021/12/04(土) 21:04:39.50
>>703
>前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。

と同時に、「倭人(阿波勢力)」の九州進出の過程を知る貴重な成果だ。   @阿波

719日本@名無史さん2021/12/04(土) 21:37:13.17
神武東征は4世紀以降だろうね

720日本@名無史さん2021/12/04(土) 21:38:22.49
>>719
その通り!   @阿波

721日本@名無史さん2021/12/04(土) 22:32:52.51
那珂八幡古墳は左右のくびれの位置が違うので
北部九州に多い比率というより不整形だが(他の古墳も原形が崩れてしまっている)

「九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、
近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。
各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。」

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/

これが畿内と北部九州の関係についての学者の畿内説

722日本@名無史さん2021/12/04(土) 22:58:23.00
結論:
邪馬台国は近畿になく、福岡になく、宮崎か熊本にあった。

理由:
倭人伝の文章の中に出てくる邪馬台国以外の国々は邪馬台国より北側の国々だと
文章自体がうたっていること。

これ決定的w

723日本@名無史さん2021/12/04(土) 23:13:09.19
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

724日本@名無史さん2021/12/04(土) 23:13:26.35
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

725日本@名無史さん2021/12/04(土) 23:18:48.72


726日本@名無史さん2021/12/04(土) 23:39:12.00
自女王國以北 特置一大率檢察 
諸國畏憚之 
常治伊都國 
於國中有如刺史 
王遣使詣京都帶方郡諸韓國
及郡使倭國 皆臨津捜露 
傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯


女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、
諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。
国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、
及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。


女王国の京都は南にあったということで、女王国の北のイト国で政務を取り仕切っていた。
素直に読むと そうとしか読めないw

727日本@名無史さん2021/12/05(日) 00:43:00.04
素直=固定観念どっぷり

728日本@名無史さん2021/12/05(日) 00:48:12.66
自女王國以北 特置一大率檢察
自女王國以北…
…女王國以北…

これ決定的w

もう一箇所証拠はあるけど。

729日本@名無史さん2021/12/05(日) 02:47:37.71
>>727
>素直=固定観念どっぷり

南へ、南へ進んだんだから、振り返ればそれまでに紹介してきたクニグニは北だ。
だから「南」の反対は「北」だ、というのは固定された観念に違いない。
ただ、その時々の都合で、南の反対が東や西になったりする貞操観念の無い学者がいるけどなwww

730日本@名無史さん2021/12/05(日) 03:15:53.78
>>724
上手いです。畿内説の弱点を指摘してます。

731日本@名無史さん2021/12/05(日) 03:29:18.94
>>719
>神武東征は4世紀以降だろうね

平安末の二中歴の年代歴の、
 年始五百六十九年、内丗九年無号不記支干、其間結縄刻木以成政
 継体五元丁酉(517年〜)
の記載に拠れば、(数え算で)、
517−39−569×2=ー660(書紀の神武即位元年)
が成立する事から、
神武が大和の磐余の地に建国した即位元年の年始からの569年は、
二倍年歴計算であった事になり、
だから、神武即位元年の西暦年次は、
−660+569=−91(年)で、
紀元前91年頃であった事になるね。
 

732日本@名無史さん2021/12/05(日) 03:36:53.82
>>721
>那珂八幡古墳は左右のくびれの位置が違うので
北部九州に多い比率というより不整形だが(他の古墳も原形が崩れてしまっている)
「九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、
近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。
各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。」
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/486635/
これが畿内と北部九州の関係についての学者の畿内説

溝口も、
大和の石塚や箸墓などの前方後円墳が、
筑紫の那珂八幡などの前方後円墳などの「進化型」になっているから、
同じ時期ではなく、大和の前方後円墳の方が筑紫の前方後円墳よりも新しい、
という人類の常識が分からないアホ教授であったんだろう、
という事になる。

733日本@名無史さん2021/12/05(日) 03:51:56.21
>>722
>結論:邪馬台国は近畿になく、福岡になく、宮崎か熊本にあった。
理由:倭人伝の文章の中に出てくる邪馬台国以外の国々は邪馬台国より北側の国々だと
文章自体がうたっていること。
これ決定的

ダメだな。
魏の役人らの行程記録では、
對海國と一大國の各二辺の海岸沿い陸行をした事が記録されており、
また奴國と投馬國は側副傍線國説明になっていて、魏使らは通っていない記載になっており、
だから、不彌國の南の邪馬壹國女王之所都でほぼ「萬二千余里」が終わった記載になり、
それより南へは行っていない記載である。

734日本@名無史さん2021/12/05(日) 04:05:18.43
>>726
>女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
女王国の京都は南にあったということで、女王国の北のイト国で政務を取り仕切っていた。
素直に読むと そうとしか読めないw

ダメだ。
「女王国の北のイト国で(女王が)政務を取り仕切っていた」とは読めない。
その前に、
「伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐」
とはっきり書いており、
更に「(伊都国に)一大率がいて、刺史の如く諸国を検察した」と言っているだけ。

735日本@名無史さん2021/12/05(日) 07:25:21.89
ザラコクもボケが進んで、すっかり時代遅れになってしまったな。

若い人に簡単に追い抜かれてる・・、

もう「奈良 対 福岡」の時代ではなくなったんですよ。

736日本@名無史さん2021/12/05(日) 08:02:58.78
>>735
その通り!  最早、「阿波」の時代。   @阿波

737日本@名無史さん2021/12/05(日) 08:32:01.09
プロ野球の出来高とJリーグの出来高は全く逆の意味合いなんだよね
プロ野球は年俸にどれだけ上乗せされるかだけどJリーグは満額からどれだけ減額されるか

738日本@名無史さん2021/12/05(日) 08:34:04.73
自女王國以北 其戸數道里可得略載 
其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 
次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 
次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 
次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 
次有奴國 此女王境界所盡


女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。
次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
>自女王國以北 其戸數道里可得略載…
>自女王國以北…
>女王国より北

そうなんです、これまでは女王国より北についてしか書いてないのです。

739日本@名無史さん2021/12/05(日) 08:41:57.73
そして ”次”以下に書かれた国々の名は、
女王国のあった地から近い順に九州内に散らばっているのであろう。
( ”好古都国” はおそらく ”はかたこく” と読む?w)

740日本@名無史さん2021/12/05(日) 08:52:22.37
畿内説は「倭人伝の距離・方角が
そのままだと南の海に行ってしまうから
倭人伝の距離・方角はいい加減」と主張するが
九州につくまで距離は誇張しても方角は概ね正しいことを
考えれば「倭人伝は距離が誇張されてるだけ」とするべきだろう

「対馬海峡の幅」「対馬の辺」「壱岐の辺」の誇張を
考えれば6-10倍くらい距離が誇張されているから
九州上陸からの行程も同様の誇張があるとして差し引けば
余裕で九州内に収まる

741日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:04:24.77
>>740
でも、距離に関しても、そう誇張してるわけでもないと思うけど。
半島南端の狗邪韓国(任那?)ですでに帯方郡から七千余里来ていて、対馬まで千余里、
さらに壱岐まで千余里、そして松浦まで千よ里で (現代の) 列島上陸まで既に
一万二千のうち万里使っているのだから、到底近畿までは行けないわけで、
イト国であった吉野ヶ里あたりまで行くとして160kmったら妥当かなと思うけど。

742日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:10:16.74
>>732
前期の前方部は真っすぐで、中期の前方部は全体的に台形に開くようになる。
前期→中期
П→→▽
◎→→◎
箸墓の前方部は撥型(先端だけが少し開く)で、両者の過渡期(前期後葉・中期前葉)にあたる。
前期後葉〜中期前葉(3世紀末〜4世紀初頭)の時代相を持つ箸墓が「卑弥呼の冢」ではないことは明らか

743日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:10:44.04
面白おかしく「畿内説 対 九州説」とかいうが、

その実態は「奈良説 対 福岡説」だった。

江戸時代以来の邪馬台国論争も、10倍くらいの誇張だったのだ・・。

744日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:13:09.31
邪馬台国はヤマト国で日本の事なんだよ
だから1万2千里は日本までの距離なんだけど日本のどの地点かは明確にしてない
方角は東南の大海の中

745日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:15:22.70
>>742
殉葬のないホケノ山や(吉備特殊器台)箸墓・西殿塚は、邪馬台国の遺跡ではないと思う人?

746日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:17:49.45
>>742
>前期の前方部は真っすぐで、中期の前方部は全体的に台形に開くようになる。

うそでーす

747日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:22:03.70
>>742
何気に凄い発見じゃね?
>>732
後期になると、後円部への石室の導入で、前方部の方が高く大きくなる
つまり前方部がどんどん大きくなっていくわけで、箸墓は明らかに最初の前方後円墳ではないことが明らかだ

748日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:22:33.09
>>741
「2000里が160km」って1里80mの短里ってこと?
グーグルマップで計った所、
波戸岬から吉野ヶ里遺跡まで直線距離で約55km

多少、行程で右往左往したとしても160kmはもっと先やろ
熊本あたりではないか
短里説でも北九州内に収めるのは難しいと思う

「長里6-10倍誇張説」だと1里40-70mと
短里説よりも短くできるので収まる

749日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:24:41.03
>>732
>>742
たしかに!箸墓(撥型)は前期の前方部 П の両脇を補強した、進化形と言えるね!

750日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:29:24.98
>>748
まあ

751日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:30:28.49
熊本など中九州勢が
朝鮮南岸・対馬・壱岐を支配してた証拠はないぽいので
やはり北九州勢が、これらの地域を支配してたぽい

そうなると北九州内に収めるのが難しい短里説より
長里6-10倍誇張説の方が妥当だと思う

752日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:36:30.23
もとい
>>748
まあ”渡海千余里”というのもいい加減な感じだから、
そこら辺で九州内の距離は調整できるとして、
松浦からの距離が160〜250くらいで女王国、あるいはイト国に着く
と想定すると九州内、それも玄界灘から見て南側なのはほぼ間違いないんだろうね。

この時点で九州外説はないのであろう。

753日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:46:33.72
>>752
「渡海千余里」も「長里10倍誇張説」で行けば
長里100里=43kmくらいで
ちょうど豊後水道の幅50kmくらいやぞ

754日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:53:36.77
>>751
>熊本など中九州勢が
>朝鮮南岸・対馬・壱岐を支配してた証拠はないぽいので

あーた、その考えが未熟、
倭人伝は、魏王朝の東夷出先機関である帯方郡が主役であり。、
その帯方郡が、朝鮮南岸・対馬・壱岐・唐津を経て、佐賀平野の伊都国を拠点に、熊本など中九州への支配を広げていた時代なんですよ、、

755日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:57:40.27
邪馬台国博多説お場合、奴国はどこにあったことになるの?

756日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:59:39.90
>>747
>>749
後円部が大きく高くなるにつれ、前方部も大きく高くなるわけだが、その際、円は安定しているが、四角は安定しないため、その先端の両脇を土留めして補強しておかないと、地震や台風で崩落してしまう。
だから上から平面図で見ると、前方部が大きく広がっていき、最終的には今城塚古墳のようにほぼ三角形に近くなっていった、という当たり前の現象。
改めて箸墓を観察すると、楯築弥生墳丘墓の双方中円墳の双方部の直線を両脇から補強した撥型◢▢◣となっており、明らかに中期古墳直前の進化形となっている。
したがって、前期初頭の前方後円墳でないことは明らかなのだが、先達の明らかな錯誤であっても、業績として引用踏襲する学界の悪癖が、箸墓オレオレ詐欺(畿内説)の隠れた本性。

757日本@名無史さん2021/12/05(日) 09:59:43.85
>>754
北九州勢が中九州まで勢力を広げていた可能性はあるかもだが
その根拠は?

758日本@名無史さん2021/12/05(日) 10:37:16.57
>>756
前期の前方部は、手鏡型Пから撥型◢▢◣へ進化し、中期へと繋がっていくんだね

この場合の「業績」とは、「箸墓オレオレ詐欺」に加担した業績であって、史実解明の業績ではないね
>>476
つまり、畿内説は、自分の頭では決してモノを考えない、先達(大本営発表)の明らかな錯誤を疑わない、一億総納税奴隷化のシムボルw
「来年令和4年は皇紀2682年、只今初詣受付中。分散参拝に御協力をおねがいします」って貼り紙が、近所の神社にデカデカと掲げてありましたw

759日本@名無史さん2021/12/05(日) 10:54:55.82
長い物には巻かれろ!畿内説www

760日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:20:53.62
里数で書かれてるのは不弥国までしかないんだから邪馬台国への行程と関係ないよ

761日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:32:09.04
>>760
なぜ関係ないの?

762日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:33:45.18
>>761
不弥国の後の投馬国邪馬台国は別の資料だから

763日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:35:09.19
>>760
不彌国まで1萬700里、そして女王国(邪馬台国)まで一万二千余里なんだから、単に引き算すればいいのだ。
だがしかし、腹に一物、背に荷物、というてな
古い学閥体質を背負っていると、何でもかんでも忖度し捻じ曲げたがる。世に云うマジックハンド畿内説だ。

764日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:35:10.65
>>123
なるほど

765日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:36:45.44
>>763
一万二千余里はヤマト国まで、つまり日本までの距離

766日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:38:33.14
>>146
なるほど!

767日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:46:01.23
帯方郡→7千里狗邪韓国〜〜〜奴国→百里不弥国
帯方郡→水行投馬国→水行陸行邪馬台国
不弥国までしか書いてないから付け足したんだよ

768日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:51:08.37
>>758
そう

前期初頭の柄鏡型Ωから撥型◢▢◣へ進化したからこそ、中期の河内巨大古墳が可能になった

それをあえて無視して、大本営発表の嘘八百を繰り返し喧伝する箸墓オレオレ詐欺が畿内説の本性

769日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:51:12.09
>>757
「可能性」は、いつでもどこでも何個でも落っこちている。
その無数の可能性のうちから、確度の高いのをいかにして選択するかだ・・個
北部九州というあいまいな概念はよろしくない。

具体的には博多+糸島勢力だが、彼らは弥生時代から湾岸を治めていた旧宗主の彌生種族=倭人だったのだろうな。
これに対し、黄巾の乱を契機に、大陸の漢民族・王族が難民となって倭へ大量に流入してきた。
そして博多を避け、いわば裏口の唐津から佐賀平野へ侵入していった。
その漢民族の避難行動を、地元の馬韓族(のちの百済族)と共に支援してきたのが帯方郡だったのだろう。

770日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:54:32.86
一万二千余里は日本までの距離なんだけど日本のどの地点かは明記されてないんだよ

771日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:58:35.04
>>762
なぜ別の資料なの?

772日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:59:24.76
>>767
自分で立派な回答を書いているではないか。素晴らしい!
つまり、
里数表記の起点は帯方郡で、(自郡至女王国萬二千余里)
水行日数表記の起点も帯方郡で、(自郡至女王国水行10日陸行1月)
故に、自郡至女王国(萬二千余里 = 水行10日陸行1月)

773日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:59:30.08
>>770
常識で考えりゃ目的地までだ

774日本@名無史さん2021/12/05(日) 11:59:52.03
>>771
里数から日数にかわってんじゃん

775日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:01:18.88
>>773
その目的地が書いてないんだよ
ヤマト国までの距離だから日本までの距離なんだよ

776日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:07:53.52
>>769

「皇紀二千六百八十一年、大本営発表、大本営発表。箸墓ハ[卑弥呼ノ冢〕ナリ。繰リ返ヘス、箸墓コソ〔卑弥呼ノ冢〕ナリ。隣組ヲ通ジ、全国民二周知徹底スベシ。大本営発表」w

777日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:08:30.66
>>770
でも、その1万2千里が使者の到着点なり女王の居るところなりでも、
いずれにしろ畿内説は距離的にはありえないだろう。
で、1里=80mくらいの短里で見ると、途中経過は大まかにはだいたいあってるわけで。

倭人伝の執筆中は多分当時の地図などを参考にしながら執筆してた可能性は高いわけで、
当時既に高度な度量衡を持っていた漢民族が方角を間違えることはほぼないであろうしね。

778日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:11:14.25
>>777
陳寿は邪馬台国が伊都国や奴国みたいな集落と勘違いしてて
実は邪馬台国はヤマト国で日本の事なんだよ

779日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:15:22.68
>>768

「皇紀二千六百八十一年、十二月八日、大本営発表、大本営発表。
倭人伝ノ〔南〕ハ[東〕ト読ミ換ヘルベシ。邪馬台国ハソノ発音カラ疑ヒナク大和国ナリ。
箸墓コソ卑弥呼ノ冢ナリ。隣組ヲ通ジ全国民二周知徹底、一億玉砕スベシ。大本営発表」

780日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:15:24.86
>>778
忖度ww

781日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:15:26.52
>勘違いしてて

自説が間違ってると結局そうなるよねw

782日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:17:01.74
>>781
邪馬台国=ヤマト国=日本だと俺は考えてるんだけど

783日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:19:18.12
>>476
「進め一億!火の玉だ!」タイタニック畿内説www

784日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:19:28.22
倭国と言ってるのは中国人であって日本人じゃないからな
じゃあ日本人はなんと呼んでたのか?
ヤマトでしょう

785日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:21:08.29
>>726
この文章の意味は
一大率は女王国より以北にいて
常に伊都国に卑弥呼がいて女王国以北の国々を一大率と使い治めていた
その様子が中国での刺史の様であった
だな

伊都国に郡使が滞在するのも卑弥呼との面会の為

786日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:22:00.64
>>726
この文章の意味は
一大率は女王国より以北にいて
常に伊都国に卑弥呼がいて女王国以北の国々を一大率を使い治めていた
その様子が中国での刺史の様であった
だな

伊都国に郡使が滞在するのも卑弥呼との面会の為

787日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:22:39.86
ダイワとしか読めない大倭(大和)を(オオ)ヤマト と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱で倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、「畿内」をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐(飛鳥時代)までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津宮に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」@九州を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を50年繰り上げて生まれた「畿内」説、ならびに古墳時代「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
記紀(後付け地名=ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と土器編年の年代繰り上げ操作による牽強付会に過ぎず、どこまで史実歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。

788日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:25:51.03
>>770
一万二千余里は7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100と書かれている
12000里と書いて内訳を書かないなんて事はないな
目的地は伊都国や奴国なんだ

789日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:27:54.16
>>772
誰も褒めてくれないから自画自賛かい?

790日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:30:22.57
>>786
>一大率は女王国より以北にいて
>常に伊都国に卑弥呼がいて女王国以北の国々を一大率を使い治めていた

学閥への忖度ww

791日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:30:46.77
>>755
早良区南部から那珂川市、春日市付近だろうな
不弥国は早良区北部、城南区

792日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:31:13.24
>>788
だからその資料には不弥国までしか書いてないんでしょ
確かにくねくね曲がりながら行けば不弥国までそのくらいの距離になるかも知れんが
12000里はそんなんじゃなくある程度直線を想定しているだろう

793日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:41:20.10
百里単位で記載されているのだから、百里単位の全てを合算するのは当たり前

794日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:45:27.48
>>793
俺も最初はそう思ってて北部九州以外有り得ないと思ってたんだけど
やっぱり水行陸行やその日数は引っ掛かってはいた
だから陳寿が勘違いしたと考える方がしっくりくるのよ

795日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:46:19.75
>>785-786
>常に伊都国に卑弥呼がいて

東南陸行 五百里 到伊都國 
官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 
有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 
郡使往來常所駐

東南陸行。五百里。伊都国に到る。
官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。
千余戸有り。世、王有り。
皆、女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。

ヒミコがいるわけないじゃんw
王がいるんだよ。
そして女王国に属してると書いてある。
要はイト国は女王国の従属国だったわけ。
だが女王連合国家のまとめ役だったと後の文章で書いてある。
そしてイト国は物品や貢ぎ物の”関所”みたいな役割をはたしていた。
かなりシステマティックな組織を作っていた。

そして魏の使者は女王には直接会っていない。
つまりイト国までしか行っていない。

当時の女王国はイメージ以上に組織がしっかり作られていたとみて良い。

796日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:51:37.92
>>738
>自女王國以北… 女王国より北
そうなんです、これまでは女王国より北についてしか書いてないのです。

「A以北」のような構文の意味内容については、
中国文献においての使用例を調べられた古田史学のお方に拠れば、
「A以北」ではほぼすべて「Aを含んで北」になり、
「自A以北」の場合には、「Aを含んで北」と「Aを含まないで北」の両方の場合があった、
という結果だった筈ですよ。

797日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:51:58.84
ひと昔前は、阿波説なんて見向きもされなかったのに、隔世の感だな。

「阿波」の台頭で、畿内説や九州説は最早、旧説に成り下がってしまった。 

なんせ、江戸時代から少しも進歩がないだからよww  わははははは   @阿波

798日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:56:23.87
>>742
>前期の前方部は真っすぐで、中期の前方部は全体的に台形に開くようになる。
前期→中期 П→→▽ ◎→→◎
箸墓の前方部は撥型(先端だけが少し開く)で、両者の過渡期(前期後葉・中期前葉)にあたる。
前期後葉〜中期前葉(3世紀末〜4世紀初頭)の時代相を持つ箸墓が「卑弥呼の冢」ではないことは明らか

成程。

799日本@名無史さん2021/12/05(日) 12:59:50.54
>>796
その文章の解釈の検討って、この場合あまり意味がない検討かなと思うのだが…

にしても、倭人伝の記述を見ると、南へ南へという記述が目立つわけだから、
この場合の”〜以北”は素直に女王国の北と見るべきだと思うのですが…?

800日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:01:00.20
>>744
>邪馬台国はヤマト国で日本の事なんだよ
だから1万2千里は日本までの距離なんだけど日本のどの地点かは明確にしてない
方角は東南の大海の中

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、この大和説男がバツであり、
「萬二千余里」は女王國(≒倭國)までの里数であるから、「ヤマト日本」説バツです。

801日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:04:31.39
>>796
>中国文献においての使用例を調べられた古田史学のお方に拠れば・・、

あれこれ含めて、しかもフルタでは、いささか信頼度が落ちるな。
文字にうるさい陳寿の場合は、全文通じて厳格に使用されてるとみるべき。
・「A以北」は、「Aを含まないで北」になり、
・「自A以北」の場合には、「Aを含んで北」である。「自」の意味を尊重すれば、それは「自ず」から明白である。

802日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:12:08.28
>>760
>里数で書かれてるのは不弥国までしかないんだから邪馬台国への行程と関係ないよ

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるからバツであり、
里数の萬二千余里は不彌國でほぼ終わっているから、
その次に邪馬壹國女王之所都の入り口が、不彌國の出口にほぼくっついている事になる。

803日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:19:59.93
>>791
邪馬台国博多説ってのはわりかしありふれた説なんですかね?

804日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:20:07.23
不弥国が目的地の行程にちゃんと里数が書いてあると言っても意味がないんだよ

805日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:24:47.86
なんだか、意図に合わせるために、
わざわざ訳の分からない曲解をしていろいろ理屈を考えてるようだが、
そんな訳の分からない文章を著者は書くものだろうか??w

なんでどうしても邪馬臺国を九州から外したいんだろうか?w
学会とも地元意識とも無関係な私にはさっぱりわからない…w

806日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:25:35.32
>>770
>一万二千余里は日本までの距離なんだけど日本のどの地点かは明記されてないんだよ

「魏の役人らの記録」を参照した事になる魏略と魏志が、
一致して「自郡至女王國萬二千餘里」と書いているから、
魏の役人らは、きちんと「自郡至女王國萬二千餘里」という文言を書き残した事になる。
そして、魏使らが計測記録した道のり里数記録に拠れば、
不彌國や邪馬壹國女王之所都で道のり里数合計が萬二千余里になっていた。

807日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:30:13.32
>>775
>その目的地が書いてないんだよ

書いてある。女王國(≒邪馬壹國女王之所都)だ。

>ヤマト国までの距離だから日本までの距離なんだよ

「ヤマト=日本」なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツ。

808日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:33:56.35
>>788
それって島巡り読法という詐欺だから一般人は笑うよ

809日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:34:08.23
>>776
>「皇紀二千六百八十一年、大本営発表、大本営発表。箸墓ハ[卑弥呼ノ冢〕ナリ。繰リ返ヘス、箸墓コソ〔卑弥呼ノ冢〕ナリ。
隣組ヲ通ジ、全国民二周知徹底スベシ。大本営発表」w

ああ、極右殺戮戦争狂の皇国史観のオレオレ詐欺の街宣車ね。

810日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:35:35.10
>>807
九州にもヤマトという地名はある。
例)山門=やまと

もしそのヤマトが畿内のヤマトに由来するものなら”大和

811日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:36:16.18
>>808
というお前の詐欺だな。

812日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:37:04.24
>>805
公式には政治的な関係性を知られたくない団体に関する説明を書けと
3世紀末に言われたらどうするかって話なような気がしなくもないな。
その頃は幅広く暴れてたんでしょ?海外で。

813日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:37:49.99
いや使いにくい専ブラw

>>807
九州にもヤマトという地名はある。
例)山門=やまと

もしそのヤマトが畿内のヤマトに由来するものなら”大和”という当て字になるだろうが、
”山門”というのは、こちらの当て字が原義だと考えられるわけで。

814日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:41:39.01
>>812
>公式には政治的な関係性を知られたくない団体に関する説明を書…

晋の官僚である陳寿が倭との関係性を知られたくないって?w
全然意味が分からんのだがww

815日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:42:26.31
>>778
>陳寿は邪馬台国が伊都国や奴国みたいな集落と勘違いしてて
実は邪馬台国はヤマト国で日本の事なんだよ

国民の皆様。
家族を皆殺しにする、
オレオレ詐欺の大和説の極右殺戮戦争狂の皇国史観の街宣車に騙されて、
殺し合い戦争に賛成してはいけませんよ。
気を付けましょうね。

816日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:45:30.96
>>813
今山門なんて言葉は残ってなくてヤマトは大和で日本の事でしょ
いつそうなったかだな
俺は山門が大和に由来するなんて思ってないけどね

817日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:49:43.75
>>772
>邪馬台国=ヤマト国=日本だと俺は考えてるんだけど

国民の皆様。(私はもう後期高齢の病気を一杯持ったよぼよぼ老人ですけど)、
オレオレ詐欺の極右殺戮戦争狂の皇国史観の街宣車に騙されて、
家族も皆殺しにさせる殺し合い戦争の大和説に、
賛成してはいけませんよ。
気を付けましょうね。

818日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:53:39.93
>>816
だから九州の山門がオリジナルだという事。
山の入り口と言う意味だろうから。
その地にあった王国システムをそのまま畿内に東遷してそっくり移したと考えられるかも。
それが大和朝廷。

819日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:54:24.38
>>805
>わざわざ訳の分からない曲解をしていろいろ理屈を考えてるようだが、
>そんな訳の分からない文章を著者は書くものだろうか??w

あなた、誰の何に対して言っているのか不明で「訳の分からない文章」だよ
そんな訳の分からない文章を、人が書くものだろうか??w

>なんでどうしても邪馬臺国を九州から外したいんだろうか?w

論理的に考えて当然外れるからだがなw
理由は再三説明されて来なかったか?

820日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:55:51.01
>>784
>倭国と言ってるのは中国人であって日本人じゃないからな
じゃあ日本人はなんと呼んでたのか?ヤマトでしょう

燕の南にいた時から倭や倭人と呼ばれていたんだが、
卑弥呼の頃には「女王國」や「倭地」や「倭國」と呼ばれ、
西晋最後の惠帝に、初めて「日本」國と名乗ったの。

821日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:57:45.63
>>820
>西晋最後の惠帝に、初めて「日本」國と名乗った

そんな古い訳ないと思うけど。
あなたは何を根拠にそんなこと言ってるんですか?

822日本@名無史さん2021/12/05(日) 13:59:18.39
>>819
>論理的に考えて当然外れるからだがなw
 理由は再三説明されて来なかったか?

すみません、新参者なので…w
説明お願いします。

823日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:02:27.85
九州を外したらどうやって行き来するんだよw

もう感情むきだしで無茶苦茶だな

824日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:05:50.35
>>814
だって執筆当時の3世紀末には明らかに倭国は中国大陸に(少なくとも軍事的には)進出していたでしょ。
その辺に触れてないのも不自然じゃない?

825日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:06:54.52
>>824
>倭国は中国大陸に

君は一体どこの世界の住人なのだ?

826日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:07:00.57
記紀をベースに倭国=日本国として考えたとしても、
ニニギの時点で宗像三女伸が登場するので、宗像は倭国になるだろうし、
神武の時点で宮崎大分や北九州市も倭国になるだろ。

ここのスレ主の脳内が迷走しすぎて本人にも訳わからんくなってそうw

827日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:09:01.27
>>824
倭人伝の拘邪韓国(=任那?)はほぼ確実な証拠だろうねw

828日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:10:40.15
>>821
>>西晋最後の惠帝に、初めて「日本」國と名乗った

>そんな古い訳ないと思うけど。
あなたは何を根拠にそんなこと言ってるんですか?

釈日本紀。
唐書群にも
「日本國者倭國之別種也(以其國在日邊故以日本為名)或曰倭國自惡其名不雅改為日本」
と記録されている。

829日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:17:49.23
>>818
何故そう言い切れる?
元の意味を考えて文字をあてるなら山門か山戸になるんだろうがこんなの日本中にある
一般的に使われてたであろうヤマトという言葉がいつから日本を意味するようになったのか

830日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:18:00.73
>>823
>九州を外したらどうやって行き来するんだよw

邪馬台国の候補地から外れるという意味だが?
こんな知能皆無な誤読をするなんて
もう感情むきだしで無茶苦茶だな

831日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:20:53.39
>>828
>日本國者倭國之別種也(以其國在日邊故以日本為名)或曰倭國自惡其名不雅改為日本

どこにも晋の恵帝とは書かれてないね

832日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:27:03.57
>>828
つまり、誤情報ということだね

833日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:30:33.57
>>829
>こんなの日本中にある

いや、今住んでる南関東や今まで住んだ所ではその字の”やまと”は見たことない。
東日本だから、谷戸(やと・やち)とかは至る所にあるけどね。
地名で ”谷” と書いて ”や” と発音するのは東日本の特徴だからね。

834日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:32:17.44
>>833
今山門とか山戸なんて言葉使わないから

835日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:37:29.86
ちなみにウィキで調べた”やまと”という言葉

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88

”山門”、”山都”という地名は
いずれも九州に集中してある。
これは偶然じゃないべwww

836日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:38:17.50
ヤマトが九州の一地方の固有名詞であるなら何故それを国家の名前にするの?
おかしいだろ
おそらく一般的に使われてたんだよ
それが何時しか日本を意味するようになった

837日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:38:18.96
>>831
>>釈日本紀と
舊唐書の日本國者倭國之別種也(以其國在日邊故以日本為名)或曰倭國自惡其名不雅改為日本

>どこにも晋の恵帝とは書かれてないね

釈日本紀の方。

838日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:43:22.33
>>833
>いや、今住んでる南関東や今まで住んだ所ではその字の”やまと”は見たことない。
東日本だから、谷戸(やと・やち)とかは至る所にあるけどね。
地名で ”谷” と書いて ”や” と発音するのは東日本の特徴だからね。

九州には「邪馬壹國」や「邪馬」國がある。

839日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:44:59.23
ヤマトに対してミナトがある
ミナト(港)なんて全国で使われてるよな

840日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:46:57.46
>>836
これはあくまで一説だが、さっきもレスした通り、
オリジナルの”やまと”の地に起こり繁栄した王国が、
そのまま九州から奈良に東遷して築かれたのが

841日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:49:50.35
>>840の続き
そのまま九州から奈良に東遷して築かれたのが”大和”

オリジナルの”やまと”の近辺の地名もそのまま移された、


という説もある。

842日本@名無史さん2021/12/05(日) 14:51:35.67
佐賀大和町には山田がある、律令制では山田郷だったが、、

さらにその昔は、そのものずばり「也万多(ヤマタ)」といった!

843日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:03:18.95
ミナトは今でも使われてて言葉が残ってる
でもヤマトは山の意味では使われなくなって既に無い言葉

844日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:04:44.86
>>842
”やまた”という言葉も古代神話にあるねw
”ヤマタノオロチ”とか(おそらく”八俣”なんだろうけど)
”壹”(たい)の字を使ったということは発音は ”た” だったのかも知れないね。

845日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:09:06.02
>>843
ミナ(水)ト(門・戸) ねw
そもそもはそういう意味だったんだろうね。

846日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:20:23.86
>>843
「山処(やまと)の地」

「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、

現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、

徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。   @阿波

847日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:37:05.34
>>844
>”ヤマタノオロチ”とか(おそらく”八俣”なんだろうけど)

平和な出雲の国の村々の娘たちを襲った”ヤマタノオロチ”(大蛇)という言い回しになってるが、
実は遠征してきた邪馬台国の暴れ者たち、、。
そのオロチを退治したのがスサノオノミコトだったというから、話が出来過ぎている。

848日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:41:35.48
奈良の大和を見ても、
”やまと”というのは、
高い低いに関わらず山々に囲まれてるような場所を指した言葉だったのかもしれないね。
日本人の幻郷とはそういった場所だと思うけど。

849日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:44:33.45
>>847
故事なのかもね。
厄災を化け物に例えるの古今東西よくあることだからね。

850日本@名無史さん2021/12/05(日) 15:46:21.79
>>837
>>どこにも晋の恵帝とは書かれてないね

>釈日本紀の方。

「又師説云日本号雖見晋恵之時義理不明」
とあるだけ

「西晋最後の惠帝に、初めて「日本」國と名乗った」はうそ
もちろん
「西晋最後の惠帝」もうそ

851日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:01:08.80
>>822
>説明お願いします。

3世紀中頃から後半は古墳出現期といわれ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
三世紀前半のうちに博多の地方政権がこの連合に加わっていて北部九州各地に影響力を及ぼしている
卑弥呼の生前にあたるので、女王の都があった邪馬台国は九州ではあり得ない
伊都国は現在の糸島で、ここに女王が置いた官は地方長官に当たる
つまり糸島は糸島は糸島は邪馬台国から遠い
倭国の習俗として倭人伝に書かれている卜占は弥生末期から古墳初期の吉備と畿内に見られる
九州は違う
国産水銀朱は畿内と四国に四国に産出例がある
九州は違う
硬玉翡翠は糸魚川産で各地に流通
九州の産物でない
投馬国は女王国以北にある
正しく比定地の示せない九州説は間違い
ほか、多数

852日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:11:54.58
キナイコシ

自らに言い聞かせる

落ち着け、落ち着くんだ、自分

853日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:19:53.82
>>851
簡単な話、
九州地方に強力な政権があった。
そしてそれらは分派して東遷した畿内政権の母体だった、
と考えればすんなり片が付くw

畿内政権の本流は九州にあった。
そしていつしか畿内政権の勢力が上まわって、九州勢力を吸収した。

854日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:23:27.18
日ノ本は、九州倭国から見て東にある国(女王国渡海千里複有国)という意味

855日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:27:26.43
>>808
自説に12000里が伊都国、奴国で終わってると都合が悪いからって
根拠も示さずに島巡り読法を否定しされてもなw
>>811
詐欺師は>>808ですよねwww

856日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:27:42.01
>>853
>九州地方に強力な政権があった。
>そしてそれらは分派して東遷した畿内政権の母体だった、
>と考えれば

そんな形跡ないから

857日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:30:01.22
>>855
最小単位が百里なのだから、百里単位で計算するのが至極当然のことだね。

858日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:32:16.47
>>851
>3世紀中頃から後半は古墳出現期といわれ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。

凄い妄想だな3世紀の大和地方とか未だ未開の地だよw

859日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:36:56.80
>>824
縄文人の痕跡が朝鮮半島でも確認されているが
今日の韓国人には縄文人由来のDNAが極僅かしか確認されない
朝鮮半島に居た縄文人は倭人となり、日本列島へ移住して行ったと思われる
魏志倭人伝の投馬国は朝鮮半島の倭人の地だったと考えられる。

860日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:41:23.57
>>857
魏志倭人伝の方可○○里を面積だって言うアンポンタンがいるが
旅の途中で通過した島の面積なんか分かるはずがない
面積を知るには島内を調査しないといけないからな
分かるのは自分達の通った距離だけだ

861日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:46:25.16
>>856
神武東征
高千穂という九州の地が出てくる以上、
そこが天皇家の故地なわけで。

なんでそこんとこ無視すんのかなあ?w

862日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:49:06.43
>>858
>凄い妄想だな3世紀の大和地方とか未だ未開の地だよw

妄想?
学校で教わったまんまだよ

863日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:49:11.15
>>778
陳寿は邪馬台国を女王の都る所と書いている
都は動詞なので名詞の「みやこ」ではなく動詞の「すべる」と読む
「すべる」とは「統べる」であり意味は治めている
つまり邪馬台国は女王の治める所と書いてあるんだ
邪馬台国は女王の首都ではなく領地全体の名称なんだ
北部九州地域全体が邪馬台国だったんだよな

864日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:52:27.63
>>861
記紀のどこにも、九州の地など出てこない。   @阿波

865日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:55:24.97
>>863
考え方はそうなんだけど俺は邪馬台国は日本を指してると思ってるけどな

866日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:57:40.07
フルタってのは罪作りだった、
どうしようもない弟子たちをわんさと養成したんだもんな・・、

867日本@名無史さん2021/12/05(日) 16:58:53.98
鬼道などの道家は中国由来以外存在しない
道家は太陽や月を神格化し崇拝している
九州に多い装飾古墳も太陽や月の信仰を意味している
畿内にはその装飾古墳が一切存在しない

868日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:00:52.64
>>863
>邪馬台国は女王の首都ではなく領地全体の名称なんだ

その通り!  女王国は、「邪馬臺国」構成国のひとつ。 実質的に「邪馬臺国」の首都。   @阿波

869日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:08:06.63
>>868
構成国ではなく総称

870日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:12:29.02
>>863
>>778ではないけど、女王国って女王の住まう国と言う意味で、
ヤマタイ国と言う意味ではないと思う。
ヤマタイ国自体はイト国やマツロ国など先に紹介した国々や後に”次”と次々に紹介した
”女王の境界尽きる”手前の諸国を含む連合国家群と考えればよい。

”次”の諸国家の名前は九州の地名を知っている人ならもしかしてピンとくる人がいるかもしれない。
(まあ現代まで同じ名前で残ってるとは限らないが)
とにかく”好古都国”が”ハカタコク”と読めるのではという説を聞いて目からうろこだよねw

同じように女王国の南に狗奴国(くなこく)の狗古智卑狗(きくちひこ)という文があるが、
これで完全邪馬台国は九州だなと確信させられるよね。

871日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:14:26.72
>>870
俺は邪馬台国はヤマト国で日本の事だと思ってる

872日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:15:00.71
九終説は倭国をちっさい箱庭に収めることに必死だね
無理だよ
三世紀の日本はもう広域国家になり始めてる

873日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:20:01.34
>>872
まだその当時は畿内政権は畿内の有力政権に過ぎず、
まだまだ西日本統一からは遠い状態だった、と考えれば良い。
実際そうだったのだろうし。
ちなみに紀元節は出鱈目も良いとこだと思っている。
それこそ歳を無茶苦茶に誇張してるのだろうし。

874日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:23:03.35
陳寿は邪馬台国を集落だと勘違いしたんだと思う
これは自分の説に都合が良いからではなくそう考えないと辻褄が合わないのよ

875日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:23:16.79
>>872
>三世紀の日本はもう広域国家になり始めてる

なり始めであって、まだ広域国家ではない。   @阿波

876日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:24:37.34
>>873
>まだその当時は畿内政権は畿内の有力政権に過ぎず、
>まだまだ西日本統一からは遠い状態だった、と考えれば良い。

いや、なんの根拠もなく考えていいわけない

それって考えてるんじゃなくて欲望してるだけだから

877日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:26:22.04
>>875
だから領邦国家になる前のネットワーク国家だと学者は言っている

878日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:27:38.81
はぁ〜♪

鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ

鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種

銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ

楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

879日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:27:49.67
>>869
>構成国ではなく総称

「邪馬臺国」は、21国の構成国のよる。   @阿波

880日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:28:05.63
はぁ〜♪

硯もねえ、文字もねえ、刀子金印なんにもねぇ

長里もねえ、街道もねえ、周旋五千里ぐーるぐる

婆さんと 爺さんと 蛙つかまえ骨かじる

楽浪土器も なんにもねえ たまに来るのは亡命陳さん

オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜

九州へ出るだ〜

九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜

はっ♪

881日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:30:44.37
>>877
>だから領邦国家になる前のネットワーク国家だと学者は言っている

ネットワークらしきものが出来るのは、雄略天皇以降だろう。   @阿波

882日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:35:43.88
>>876
紀記の記述は、紀元節を見ても、殊年代については信用できない。
この点は海外の魏志の方が機械的に正しいだろうね。

別に欲望に無理やり結びつけてるわけじゃなく、
倭人伝を素直に読めば、
邪馬台国は九州にあるだろうと ”気づきがあった” というだけの話だよw

883日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:44:43.25
>>882
倭人伝の記述は水行陸行以外はどう見ても北部九州を指してるし陳寿もそのつもりで書いたんだろう
だから俺も水行陸行の部分に引っ掛かってはいたけど北部九州だろうと思ってた

884日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:47:29.77
>>883
>倭人伝の記述は水行陸行以外はどう見ても北部九州を指してるし

気候・植栽で、北部九州も畿内も、即アウト!   @阿波

885日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:47:41.19
日程が別だとスッキリ説明がつくと知り、それだと自分の希望する比定地ではなくなると知り、癇癪をおこして将棋盤をひっくり返したところw

886日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:48:02.62
>>883
>倭人伝の記述は水行陸行以外はどう見ても北部九州を指してるし

丹・気候・植栽で、北部九州も畿内も、即アウト!   @阿波

887日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:53:35.90
>>869日本@名無史さん
>>868
>>構成国ではなく総称

倭人伝の読みが足りぬ。
これは歴史書だから年代順(時系列)に添って書かれている。
卑弥呼の共立記事の前に出てくる「女王国」は、倭30国の一つであった邪馬台国の事。
共立記事の後に出てくる「女王国(女王国東渡海千里)」は、倭王として共立されたのちだから倭30国全体の事。

888日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:56:29.98
ぶっちゃけ倭人伝を信用しないのなら東京説だって有り得るわw
東京は戦争や開発で遺跡なんかとっくに消滅してるだろうから幾らでもこじつけられる

889日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:56:50.98
>>883
それらの問題はまず出発点だろうね。
どこからの陸行・水行なのかという。
とにかく魏の使者はイト国までしか行ってないわけで。

そして陸行何日、水行何日と言う記述が
並行して書かれている距離なのか、
シーケンシャルな距離なのか、
解釈の違いで、行きつくところが違ってしまう。

私は陸行・水行の距離は、使者が度量衡を知らない倭人に見聞した距離であり、
陸行で行った場合の時間と水行で行った場合の時間の並行表記だと解釈する説を支持する。

890日本@名無史さん2021/12/05(日) 17:58:31.24
チェリオが大麻ドリンク発売した 一本500円
邪馬台国畿内説 Part740 YouTube動画>2本 ->画像>30枚

原料も売ってる 300円(ドリンク2、30本くらい)
http://californiadream.jp/?pid=159542413

メルカリやるならこれ 飲食やるならこれ

参考は都内のCBD喫茶など

卑弥呼やアメタラシヒコがやってたと言われる大麻
タイムリープ系
故に未来記とか書かれたとか噂されてる
その答えがここにある

891日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:02:04.70
女王国まで、一萬二千余里の里数の起点も帯方郡、

投馬国まで、水行二十日の日数の起点も帯方郡
邪馬台国女王之所都まで、水行十日陸行1月の日数の起点も帯方郡
(注)「邪馬台国の女王の都する所まで」の意味

892日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:05:55.80
>>889
>とにかく魏の使者はイト国までしか行ってないわけで。

初心者が、何をアホなことを・・、
「拝仮倭王」(倭王に目通りした)とハッキリ書かれている。

893日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:08:05.06
>>889
だから陳寿の勘違いで不弥国までの行程資料に投馬国邪馬台国の行程資料をくっつけたんだよ

894日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:11:55.07
1万2千里はおそらく直線距離

895日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:18:40.65
じゃないと負けるから必死

896日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:22:45.92
>>891
もし陳寿がわかった上でそれを書いたとするなら読む人が理解出来ないでしょ
なんで投馬国と邪馬台国だけ帯方郡に戻るの?

897日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:23:19.65
一万二千里ばかり論じているが、それ以前に
七千余里で、帯方郡から倭に至っとるからな。

898日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:24:31.74
>>896
里程と日程が別だとしても、日程は日程で帯方郡→投馬国→邪馬台国だよな。

899日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:28:15.03
投馬国がどこかわかんねーじゃねーかw

900日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:28:37.94
>>894
>1万2千里はおそらく直線距離

その通り!   @阿波

901日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:39:31.03
>>887
女王国は伊都国、奴国等の邪馬台国の首都圏のことで女王を共立した国々
女王は個人の女王卑弥呼の事と邪馬台国を指して女王とす場合がある
女王=邪馬台国の例「此女王境界所盡」「不屬女王」「去女王四千餘里」

902日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:41:04.49
>>899
投馬国は狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部地域だよ。

903日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:42:37.59
>>892
伊都国に卑弥呼が住んで居たから魏使は伊都国を目指したんだ

904日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:45:40.21
>>898
帯方郡→投馬国→邪馬台国が12000里だよな
同じ行程を距離と時間で二重に説明してるだけだよね

905日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:46:30.13
>>851
>3世紀中頃から後半は古墳出現期といわれ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。

間違い。卑弥呼の墓の冢は前方後円墳ではなく、
従って大和の前方後円墳は3世紀末の石塚など以後であるから、大和説はバツ。

>三世紀前半のうちに博多の地方政権がこの連合に加わっていて北部九州各地に影響力を及ぼしている

大和は九州倭國の東征毛人五十五國の征服地であり、地方の市を監督する大倭職の旧小国であり、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言であり、
大和説など有り得ない。

>伊都国は現在の糸島で、ここに女王が置いた官は地方長官に当たる
つまり糸島は糸島は糸島は邪馬台国から遠い

魏の役人らの記録では、伊都国から邪馬壹國女王之所都へは百里余りであり、非常に近い。
倭国の習俗として倭人伝に書かれている卜占は、元は出雲系や毛人の習俗であり、卑弥呼の「鬼道」とは違うから北部九州では少なくなり、半独立国的な一大國に多く見られる。

>国産水銀朱は畿内と四国に四国に産出例がある 硬玉翡翠は糸魚川産で各地に

当然九州倭國の東征毛人五十五國や地方の市を介して、北部九州に搬入された。

>投馬国は女王国以北にある

投馬國はほぼ南九州であり、きちんと「自女王國以北」の範囲内にある。
正しく比定地の示せない大和説は間違い
ほか、多数

906日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:46:35.87
>>882
>倭人伝を素直に読めば、
>邪馬台国は九州にあるだろうと ”気づきがあった” というだけの話だよw

つまり信仰

907日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:49:43.87
>>883
>だから俺も水行陸行の部分に引っ掛かってはいたけど北部九州だろうと思ってた

これも典型的な「結論先にありき」ですね

908日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:50:58.71
>>898
>里程と日程が別だとしても、日程は日程で帯方郡→投馬国→邪馬台国だよな。

帯方郡→投馬国→邪馬台国と連続式の記述でないことは、
それ以前、及び以後に出てくる記述方式から明らかである。

つまり、水行行程、もしくは陸行行程が連続式記述である場合は「叉南・・・」のように、
又を書き入れて連続行程であることが明記されている。
水行ー水行、もしくは陸行ー陸行の間で、又が無い場合は平行行程(並行行程)である。
不彌国から南投馬国と、南邪馬台国への場合がそれである。

現代の日本語では、「又」を「又は/or」の意味にほぼ限定して使うので間違いやすいが、
倭人伝の陳寿の場合は、「又」は「さらにまた、続いてまた」の意味なのである。
原文に当って勉強されたし。

909日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:51:28.98
>>904
あの書き方で読み手にそれが理解できると思う?
それこそ初めて出る投馬国って何処よって話し

910日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:51:38.55
>>905
「邪馬壹國女王之所都」これは
邪馬台国は女王の治める国って意味で邪馬台国は女王の都じゃないんだよ
動詞の都は統べるの意味なんだよ
邪馬台国は女王の都は誤訳
邪馬台国は北部九州地域全体の事なんだ

911日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:53:20.85
>>909
魏志倭人伝を読むと投馬国は里での説明してる狗邪韓国に当たるでしょ

912日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:55:38.27
>>908
「又」は形からして2つに分かれている
「復」が「さらにまた、続いてまた」の意味だよ

913日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:56:28.39
>>911
そう思うよ
帯方郡から水行20日だからそんなもんでしょう

914日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:56:43.04
>>902

それはお前が決めたことで、
倭人伝を読む中国人にはわからねーよ

915日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:58:10.55
>>909
里での説明に到が狗邪韓国と伊都国にだけ使われてるでしょ
日数での説明で狗邪韓国が投馬国、伊都国が邪馬台国に対応してる事を表しているんですよ

916日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:59:23.28
>>911
投馬国ではなく 狗邪韓国と書かなきゃ読者にわかんねえじゃん

917日本@名無史さん2021/12/05(日) 18:59:56.60
>>914
狗邪韓国が投馬国、伊都国が邪馬台国だと
陳寿が書いてるんだよ

918日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:00:29.64
中国が倭国の位置関係をわからなくする必要性は十分にあるよね
政府が貴金属や水銀等の最重要鉱物資源のソースの出どころを明文化する必要性は皆無だもんね。

919日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:03:00.61
>>915
おまえも同じだな
投馬国が狗邪韓国であるなら狗邪韓国と書けよ
名前変えたらわかんねえじゃん

920日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:04:49.08
>>854
>日ノ本は、九州倭国から見て東にある国(女王国渡海千里複有国)という意味

旧唐書などに拠れば、
「(大和の)日本國者倭國之別種也。以其國在日邊故以日本為名。或曰倭國自惡其名不雅改為日本」として、
九州倭國が(大和よりも先に)「自惡其名不雅改為日本」としていた事を証言しており、
その事があった事を示す情報が、(東大理系博士号自称の)大和説男?が紹介したように、
釈日本紀に、西晋最後の皇帝の惠帝に東夷諸国群の遣使があった時に、
倭國が「日本」という国号を持つ事を上奏した、と記載で証言されていた。

921日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:05:46.38
>>908
>それ以前、及び以後に出てくる記述方式から明らかである。

これ、自己矛盾だねえ
原資料が別だから、もういちど出発点を郡に戻すという非常識なリセットが許されるって主張なんでしょ?
ならば「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」には拘束されないよ
逆に「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」に拘束されるというならば「又(引き続き)」で書かれた移動以前に出発点を差し戻すことは出来ない
自己矛盾しちゃうでしょ?


>つまり、水行行程、もしくは陸行行程が連続式記述である場合は「叉南・・・」のように、
>又を書き入れて連続行程であることが明記されている。

無理でした。はい、論破

922日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:06:58.81
>>919
九州説ってムチャクチャだからね

923日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:08:02.46
俺も狗邪韓国が投馬国だと思うよ
じゃあ何故名前が違うのか?
別の資料を使ってるからだよ

924日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:22:26.49
>>917

書いてねーよw
国名が違うんだから

925日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:28:37.72
>>897
九州上陸時点で1万里超えてますが…

926日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:30:13.13
>>894
>1万2千里はおそらく直線距離

その通り!   @阿波

927日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:31:24.31
>>923

別の資料使って国名が違ってたら陳寿にもわからねーよ

928日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:32:46.08
>>921
>逆に「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」に拘束されるというならば
>「又(引き続き)」で書かれた移動以前に出発点を差し戻すことは出来ない

アタマの中の引き出し(ファイル)が不足しているねえ
里数の行程は里数行程として里数ファイルに、
日数の行程は日数行程として日数ファイルに整理されるべきなんだ。

東夷人は里数を知らず、日数を以てす、と書かれてしまったが、
そもそもIQが高い漢民族のアタマの中には、里数ファイルと日数ファイルの二つの世界があるわけだ、
しかし、アタマの中にファイルが一つしかなくて、
里数と日数がゴタマゼに入っているオメは根っからの東夷人であるから、
漢民族陳寿の高度な文章が、なかなか読み切れないんだよ・・、お気の毒にのう・・、

929日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:35:54.13
整理して国名が変わったら読み手にはわからんだろがw

930日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:35:59.93
なんで古今の高級官僚は一言で裏表正反対の話を両方したがるんだろうね。

931日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:37:17.37
>>927
だから陳寿の勘違いで不弥国までの行程資料に投馬国邪馬台国の行程資料を繋げたのよ
名前の違いは時代の違いかもしれないし範囲が違うかもしれない
投馬国は5万戸だからな
ただし同一人物が書いてるんだしここは名前を変えちゃダメでしょ

932日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:40:28.22
>>917
よくそんな出鱈目書けるねw
狗邪韓国は朝鮮半島で当時の倭の領土だったんだよ。
投馬国(ツマコク)はイト国の東のフミ国の南で、イト国から水行二十日の位置、
宮崎あたりと考えられる。(西都市・都萬神社あたり?)

933日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:42:05.42
>>928
>アタマの中の引き出し(ファイル)が不足しているねえ

罵っても反論にならないよ

>里数の行程は里数行程として里数ファイルに、
>日数の行程は日数行程として日数ファイルに整理されるべきなんだ。

根拠なくかってに言い張っても無意味
罰だと言い張るなら
「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」を適用する根拠がない

934日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:43:48.32
>>931

つまり陳寿は帯方郡からの日数だとは書いてない
書かれてない倭人伝を読んで狗邪韓国が投馬国と決めたということだな

935日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:46:17.80
>>932
当時の船足で、
水行10日で帯方郡から北部九州までは不可能ですよ。

936日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:46:30.60
>>934
何言ってるのかわかんないけど不弥国までしか書いてなかったら
その後邪馬台国迄の資料は必要でしょ

937日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:47:27.42
ご丁寧に同じ経路を里程と日程それぞれで説明してくれてるのに駄々をこねる敗残説w

938日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:50:18.40
>>936

だから陳寿が書いた倭人伝は不弥国からの日数なんだろ?

939日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:53:55.56
>>938
陳寿が間違ってる事を前提にそうだよ

940日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:55:15.31
>>939

つまり、倭人伝には帯方郡からの日数として書いていない

941日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:56:26.99
>>940
何が言いたいのかはっきり言ってくれないとわかんないよ

942日本@名無史さん2021/12/05(日) 19:59:13.82
>>941

書かれてない倭人伝を読んで里数と日数で2回行程を書いたと言ってるんだろ

943日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:00:10.92
>>942
書かれてない倭人伝とは何?

944日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:01:17.56
>>943

帯方郡からの日数だとは書かれていない倭人伝

945日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:04:14.87
>>867
>鬼道などの道家は中国由来以外存在しない
道家は太陽や月を神格化し崇拝している
九州に多い装飾古墳も太陽や月の信仰を意味している
畿内にはその装飾古墳が一切存在しない

ふーん。

946日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:04:35.48
>>944
簡単に言えば帯方郡からの行程を2回書いたって事なんだけど
一方は不弥国までの行程だな

947日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:06:25.86
私は、そうとは言ってない。
勘ぐるのは止めてください(キリッ

948日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:07:01.38
>>946

帯方郡からの日数だとは書かれていない倭人伝を読んで
帯方郡からの日数だと決めたのはお前だろ

949日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:07:19.79
>>946
いあいあ侏儒国までありますぞ

950日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:08:20.89
>>948
すまんけどおまえの言ってる事があまり理解出来てないのよ

951日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:09:04.24
>>871
>俺は邪馬台国はヤマト国で日本の事だと思ってる

キミは、「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つきオレオレ詐欺文言を使い、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國は九州」の否定などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
詐欺師だ、と思うな。

952日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:11:37.22
>>950

お前は自分が決めたことを事実だと思い込んでるからだよ
もし里数で書かれた資料があって、それには投馬国と邪馬台国の国名がなく、
投馬国と邪馬台国の国名の記載がある日数で書かれた別の資料があったのなら
投馬国の国名が違うからそれは別のルート

953日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:15:22.21
>>952
狗邪韓国が投馬国だと言ってる事か?
俺はそうだと思ってるけど決め付けてるか?

954日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:16:05.33
>>872
キミは、倭国をちっさい大和の箱庭に収めることに必死だね
無理だよ
三世紀の女王國(≒倭國)は、ほぼ九州島付近であり、
大和は、九州倭國の「自昔・・・東家毛人五十五國」の別種分家の倭種の旧小国であり、
地方の市を監督する「大倭」職の国であり、
前方後円墳も庄内も、3世紀末以後に九州倭國から伝えられたものだよ。

955日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:18:19.37
無茶苦茶やなw
みんな落ち着けよw

956日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:18:45.15
>>953

決めつけてるから帯方郡からの日数だと言ってるんだろ
陳寿は帯方郡からの日数とは書いてないのに

957日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:20:44.39
>>874
>陳寿は邪馬台国を集落だと勘違いしたんだと思う

キミは、
「邪馬台国」なんて存在もしなかった文言を使う嘘つきオレオレ詐欺師だと思うし、
魏の役人たちはきちんと「邪馬壹國女王之所都の国は7万戸だ」と見聞計測を記録しているから、
これは、キミは自分の説に都合が悪いからそう考えた、
としないと辻褄が合わないのよ

958日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:22:49.56
>>956
俺は別の資料だと言ってるんだけどじゃあ何処からなんだ?

959日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:23:44.57
あ〜あ
邪馬台国めぐりお遍路ループの無限の論理循環に陥っちゃったね
正気に戻ってあなたの目的地はどこなのか、お考えなさい

960日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:25:38.56
>>877
>だから領邦国家になる前のネットワーク国家だと学者は言っている

どこの大和説学者なのか?は知らんが、
領邦国家であったのは九州倭國であり、
その九州倭國の「自昔・・・東征毛人五十五國」や「地方の市を監督する大倭職の旧小国群」で、
ネットワークが出来た、という事だ。

961日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:28:28.35
>>958

投馬国の国名が違うから、
帯方郡からなら狗邪韓国を通らない別ルートになるし
不弥国からではないなら、どこからなのかわからん使い物にならない日数になる

962日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:29:21.24
ネットワークと言っても幼稚園の同窓会くらいの薄いネットワークから
それこそ名前も所属も自白しない入れ墨だけがドックタグみたいなネットワークの世界もあるわけだからね

963日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:32:21.00
>>961
不弥国から水行1月陸行1月の場所は何処?

964日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:32:40.97
>>958
>俺は別の資料だと言ってるんだけどじゃあ何処からなんだ?

あなたは日本語が下手だね
その書き方では
「資料の出所が」何処からなのか
「出発点が」何処からなのか
他人には理解できない

965日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:34:24.52
>>893
>だから陳寿の勘違いで不弥国までの行程資料に投馬国邪馬台国の行程資料をくっつけたんだよ

複数以上の魏の役人らの「実地での見聞計測の記録」群を、
陳寿は見て、倭人伝を書いた事になるから、「勘違い」など起こる筈もなく、
この男の「陳寿の勘違い」論は、オレオレ詐欺であり、バツね。

966日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:34:29.21
>>964
>「資料の出所が」何処からなのか
知らんがな
陳寿の集めた資料の中にあったんだろ

967日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:38:33.16
>>963
倭に行く話が書いてあって
倭の女王に仮授した話が書いてあって
女王の都が邪馬台国にある話が書いてある
そこで不弥国までの里程と、何処からだか分からない(?)水行陸行が書いてあれば、常識ある人は不弥国から直線式記述の続きと読むだろう

968日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:39:31.85
>>967
だから何処を想定してるのよ

969日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:39:43.91
【第5回 邪馬台国は阿波だった!?】
藤井 榮(ふじい さかえ)NPO法人「阿波国古代研究所」
『畿内説、九州説は頭が悪いんです ぷぷぅ〜w』



970日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:45:07.06
>>933
>罰だと言い張るなら
>「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」を適用する根拠がない

ほれ、又続いて、里数ファイルと日数ファイルをチャンポンにしてる
「それ以前」に出てくるファイルは、お分かりの通り里数だったが、
「それ以後に出てくる記述方式」・・・つまり、女王国東渡海千里を含め、それ以降にも里数ファイルが出てくる。
そしてさらにそのあとには、「船行1年にして至る」の日数ファイルが出てくる。良く読んでみなはれ・・、

971日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:48:14.08
>>968
>だから何処を想定してるのよ

日本語下手なやつだな
目的語を書けよ

972日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:48:19.64
>>874
>1万2千里はおそらく直線距離

3世紀頃の中国では、行程説明の原則は、
出発地の外縁部の出口から相手地の外縁部の入口までの、
曲がりくねった「道のり里数説明」であり、
山越えや渡海や大河川の渡河などは出来るだけ避け、
やむを得ず「里数」を記録する場合は、
一寸千里や簡易三角測量での概算で記録するもの。

973日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:49:51.45
>>932
>投馬国(ツマコク)はイト国の東のフミ国の南で、イト国から水行二十日の位置、
>宮崎あたりと考えられる。(西都市・都萬神社あたり?)

妄想を垂れる前に、「投馬国」に見合う弥生集落遺跡群を見つけてこい。 話はそれからだ。   @阿波

974日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:53:02.45
>>972の訂正
>>894
>1万2千里はおそらく直線距離

3世紀頃の中国では、行程説明の原則は、
出発地の外縁部の出口から相手地の外縁部の入口までの、
曲がりくねった「道のり里数説明」であり、
山越えや渡海や大河川の渡河などは出来るだけ避け、
やむを得ず「里数」を記録する場合は、
一寸千里や簡易三角測量での概算で記録するもの。

975日本@名無史さん2021/12/05(日) 20:55:49.46
>>974
俺が言ってるのは帯方郡から日本までの直線距離だと言ってるんだよ
日本のどの地点かわからんけど

976日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:01:00.07
>>898
>里程と日程が別だとしても、日程は日程で帯方郡→投馬国→邪馬台国だよな。

投馬國への「水行二十日」は、途中移動文言がないから、移動しておらず、
倭人からの「所要日数の伝聞情報」であり、
女王之所都への「水行十日陸行一月」は、その直前の文言の、
(郡からの目的地である)「女王之所都」の説明文言になるから、
郡から女王之所都への所要日数説明文になる。

977日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:04:16.24
>>903
>伊都国に卑弥呼が住んで居たから魏使は伊都国を目指したんだ

伊都国は一大率の所地であり、女王之所都とは書き分けられているから、
バツね。

978日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:04:50.02
>>975
もちろん、四国の「阿波」。   

帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波

979日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:10:27.13
>>917
>狗邪韓国が投馬国、伊都国が邪馬台国だと
陳寿が書いてるんだよ

いや、陳寿は、書き分けている。

980日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:14:29.44
>>918
>中国が倭国の位置関係をわからなくする必要性は十分にあるよね
政府が貴金属や水銀等の最重要鉱物資源のソースの出どころを明文化する必要性は皆無だもんね。

いや、魏の役人たちは、
「倭國の位置関係」も「貴金属や水銀等の最重要鉱物資源のソースの出どころ」も、
皇帝らにも判るように記録しておく必要があった。

981日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:17:17.50
>.922
大和説者らやその仲間って、ムチャクチャだからね

982日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:19:39.71
>>923
>俺も狗邪韓国が投馬国だと思うよ
じゃあ何故名前が違うのか?
別の資料を使ってるからだよ

いや、魏の役人らは、「名前を違える」必要も「別の資料を使う」理由もない。

983日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:20:25.70

984日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:22:18.52
>>983
規制解除になったのか? おめでとう。   @阿波

985日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:25:13.51
>>982
里数から日数に変わってるだろ
不自然だろ

986日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:26:59.08
>>933
>>アタマの中の引き出し(ファイル)が不足しているねえ

>罵っても反論にならないよ

>>里数の行程は里数行程として里数ファイルに、
日数の行程は日数行程として日数ファイルに整理されるべきなんだ。

>根拠なくかってに言い張っても無意味 罰だと言い張るなら
「それ以前、及び以後に出てくる記述方式」を適用する根拠がない

おや?、この投稿は「東大理系博士号自称男」の投稿のようだな。
「口先でのオレオレ詐欺の詐術的投稿」という言葉つきが同じ。

987日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:27:08.70
>>985
不自然だって理由は?

988日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:30:11.96
>>923
>俺も狗邪韓国が投馬国だと思うよ
>じゃあ何故名前が違うのか?
>別の資料を使ってるからだよ

やっつけ切り張りで、とりあえず表紙と裏表紙だけ取り繕ったオメの博士論文はそうだったのかい、
希代の名文筆家で監修者でもあった陳寿ともなれば、そんな手抜きはしておらぬ。
たくさんの別史料を使っても、最後は全体を通して矛盾なく仕上げたのだ。それが偉大な監修者の力量というものだ。

989日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:31:53.09
>>938
>だから陳寿が書いた倭人伝は不弥国からの日数なんだろ?

違うな。
投馬國の「水行二十日」は、不彌國からの側副傍線國説明での所要日数であるが、
「水行十日陸行一月」は、目的地である女王之所都の日数説明文になるから、
出発地の郡から女王之所都までの所要日数説明文である事になる。

990日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:33:19.75
>>988
投馬国や邪馬台国は韓の馬韓、辰韓、弁解の様なもの
投馬国の中に狗邪韓国が在ったんだ
邪馬台国の中に伊都国や奴国等の国々が在った様に

991日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:35:51.65
>>989
不彌國の次に来るのは斯馬國だよ
奴国、不彌國、斯馬國・・・奴国
周旋5000里なんだ

992日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:38:00.57
>>963
>不弥国から水行1月陸行1月の場所は何処?

「水行1月陸行1月」は、不彌國からの日数説明ではなく。
「郡から女王之所都」の所要日数説明であるから、
この男の脳がバツ。

993日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:39:10.68
>>985
里数で著してるのは中国人が自分らで図った距離、
陸行・水行で著してるのは、度量衡のわからない倭人にから伝聞した距離。
すなわち実際には行ってないとこまでの距離。

994日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:42:09.49
>>990
なんで投馬国と拘邪韓国を同一視すんだよw
あたまおかしいだろw

995日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:42:49.29
>>992
俺は>>961にレス付けたんだぞ
倭人伝に書いてない事は認めないんだとよ
だからおまえの言ってるのもアウト

996日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:43:57.52
>>967
>倭に行く話が書いてあって
倭の女王に仮授した話が書いてあって
女王の都が邪馬台国にある話が書いてある
そこで不弥国までの里程と、何処からだか分からない(?)水行陸行が書いてあれば、
常識ある人は不弥国から直線式記述の続きと読むだろう

漢文の常識がある人なら、
数量説明文の「対象文言」はその数量説明文言の直前の文言である、
という原則を知っている筈。
この場合は「女王之所都」が直前文言。

997日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:46:48.97
>>969
畿内説、阿波説の学者らは、「南→東」などの史料事実や史料実態の曲解や否定の、
オレオレ詐欺師であるだけではなく、
頭が悪いんです ぷぷぅ〜

998日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:50:32.89
>>990
>投馬国の中に狗邪韓国が在ったんだ
邪馬台国の中に伊都国や奴国等の国々が在った様に

どうやら九州説はもう倭人伝を完全に無視のようだね

999日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:52:24.40
>>998
悔しくてスレ埋めしてるんだろw

1000日本@名無史さん2021/12/05(日) 21:52:34.51
>>998
大阪説の俺はそれで正しいと思ってるぞ
今日50個くらい書き込みしたな


lud20211214183933ca
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